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日本の100人

戦争、飢饉、天災、政情不安
いまリーダーに 求められるものとは何か?
困難を乗り越えた 日本の偉人たち

一つの観点として、古代から現代にかけて、我々は多くの危機的状況に直面してきました。 外国との戦い、政権交替にともなう武力紛争、自然災害がもたらす災厄 その時、リーダーたちは どのように思考し、 非常事態に立ち向かっていったのか。 冊子「歴史人」より作家の童門冬二 さんの記事を抜粋します。各時代を代表する偉人の言動からリーダーに必要な資質や行動力を 浮き彫りにしてみましょう。

「危機に直面した指導者に求められる4つの要素」

危機に直面した時、これを解決するためにトップに求められる要件は、情報力(収集と分析) ・問題点への考察力・解決策の設定力(複数)・その中からベストを選ぶ決断力・実行力等だ といわれます。しかしITの普及によって組織成員(部下)の価値観が大きく変り、きびしくなりました。 危機克服に参加させるためのモチベーションと、実際行動のモラール(やる気)のアップには 新しい別な要素が必要です。現在、組織成員が関心を持つのは「何をやるか」以前に「誰がやるか」 でしょう。自分たちを納得させるのは誰なのか、から注目します。これに応えるためには 「あの人なら大丈夫だ」「あの人の指示なら間違いない」という、”なら”が必要だです。 この”なら”といわせる要素を、「名将言行録」等では「風度」と云っています。 偉人は誰もがこの風度を持っていたようです。”なら”と思わせる要素は言葉は悪いが 人たらしの法則です。それも技術ではなく組織成員を、その気にさせるトップの持ち味です。 風度とは人の発する気(オーラ)と云っていいでしょう。このトップならすべてを任せてもいい、 指示命令には絶対に従うぞ、という信頼感の源泉です。以下にその例をいくつか挙げます。
源頼朝が死ぬと京都で公家達が兵を挙げました。「幕府討滅、王権回復」が目的です。 鎌倉幕府に身をゆだねる東国武士は驚きました。公家達 の背後に後鳥羽・土御門・順徳の三上皇が いるからです。それを粉砕し武士の不安を公家倒滅の暴風に逆流させたのは、頼朝の妻北条政子です。 鎌倉に集まった武士達に政子が告げたのは、「公家の番犬だったみじめな武士時代を思い出せ」 「それを救ったのはわが夫、頼朝だ」「夫は武士の自治のために武士の政府を作った。 それを捨てる気か!」と怒りの炎を口から噴き上げました。武士達はその迫力に息を止めました。 そして政子が告げた三段論法の内容をこもごも考えます。やがて風が起ります。「公家を恐れるな、 京都へ行ってかれらを討とう!」という風です。風は武士達の間を吹きまくります。 幕府存亡の危機は克服されました。政子の東国武士の質実剛健の特性尊重と、自治を重んずる信念と 気迫が、凄じいオーラ(風度)となって、武士達を奮起させました。政子の信念と情熱は煮え 切らなかった頼朝を既に越えていました。そして武士達に(この女性がトップなら)という、安心と期待感 を与えました。政子の死に物狂いの決断力の賜物です。それが武士達を体起させる風度になりました。

「リーダーの信念と決断力が閉塞した現状を打開する。」

争乱が日常的であった戦国時代はどうでしょうか?
北条早雲は前歴不明のために“戦国三梟雄(さんきょうゆう)”の一人に位置づけられています。 民思いのヒューマニストだったが、徒手空拳で国を盗ったことは間違いありません。 かれが諸国放浪後、駿河(静岡県)の太守今川家に寄宿した時、伊豆に足利一族の悪公方がいました。 今川がこの討伐を命じました。早雲は簡単に悪公方を追放します。ところが住民は有難がらずに 病人と老人を残して、山中に逃げこみました。武器をとり早雲に敵意を示したわけです。 ”早雲は得体の知れない悪党だ”という追われた悪公方一味の宣伝だったのです。 地域の多くが呼応しました。早雲軍は囲まれて孤立しました。四面楚歌です。 「住民のために悪公方退治をしたのに。恩知らずめ!」部下達が文句を云いました。 しかし現実はその恩知らずに敵意を以って囲まれ、いつ襲われるかわからない。完全な 危機です。部下(といっても今川家の家臣)は不安気に訊きます「どうします?」 「うむ、そのことだが頼みがある」早雲は考えていたことを口にします。 「村に残っている病人と老人一人について、お前たちが3人ずつつき添って介護してやってくれ」 「え?」部下はビックリして早雲を見ました。早雲は反対されても絶対引かない表情を しています。自分の頼みが決して間違っていないことを信ずる身の構えです。 その信念がオーラとなって発しているのです。部下達は圧倒されます。やがて云われたとおり、 3人ずつ交代で病人と老人を介しました。山の住民にこのことが知らされ皆降りてきます。 早雲の”民を大切に”はその後北条氏のCI(国是)となり5代100年にわたって守られました。 早雲の風度は死後も継承されたのです。
織田信長は“桶狭間の合戦”の論功行賞で、敵将今川義元の首を取った2人の勇士ではな く、梁田政綱という武士の勲功を第一位とし、3千石の美を与えました。家臣達は疑問を持ち、 信長にその理由説明を求める者もいました。信長は説明します。「梁田は地方駐在軍の将であり、 その地域に溶けこんでいた。住民から愛される織田軍の先手だ。その活動を評価する。 地域の長老が今川軍の動向をこまかく伝え、合戦当日の気象状況の予測まで伝えてくれたのだ。 今日の勝利はすべてこの情報に基く作戦によるものだ。今川義元の首を取った2人の勇士の武功 はもちろん優れたものだが、梁田がもたらした情報がなければ実現できない。今後はすべ て情報が優先される。それも正確なものが必要だ。それを得るためには、普段から地域に 溶け込み、住民に愛され親しまれる努力が大切だ。全員そういう意識を持て、」と。 武功よりも情報を重視する信長はやはり同時代の武将よりも相当先を歩いていました。 「ミクロがマクロ(織田家の命運)を左右する事もある」というのは卓見です。信長の風度は 自分で磨きをかける先見性から発しています。織田信長の美濃国(岐阜県)制圧には、木下藤吉郎 (豊臣秀吉)当時の秀吉のリーダーシップの功績が大きい。農民出身の秀吉は関白になるまでの 出世を遂げました。そのため「生涯を出世だけを目標にしていた」というみられ方が多い。 しかし秀吉ほど個人の功績(一番槍など)を嫌い「仕事はチームワークが大切だ」と主張し 続けた人物はいません。かれの人生は「仕事人の組織化(オーガナイズ)」に費やされました。 美濃国攻略の攻撃目標は稲葉山城(岐阜城)で、長良川畔にあります。信長は秀吉に攻略を命 じます。秀吉は下流の伏に拠点になる城を築きました。木曽川との合流点で大湿地帯です。 秀吉は地域の蜂須賀小六の隊に参加を求めます。おそらく”輪中(洪水防止の円型集落)”の技 術を、発揮させたのだろう。工作隊・警備隊・休憩隊の3隊に区分します。休憩隊には皆笑いました。 しかしモラール(やる気)は上ります。 城は一夜で完成しました。秀吉はこの隊を率い稲葉山城の 裏手から侵入し、放火させます。正面(大手門)からの攻撃は、弟の秀長隊を充てます。 「攻撃の合図は竿の先で瓢箪を振る」 と定めました。表裏の攻撃で城は落ちてしまいます。 秀吉は瓢箪を一個括りつけた竿を振って言います。「このヒョータンをわが隊の馬印とする。 これは、俺個人の印ではない。隊の印だ。手柄を立てるたびに数を増やす。全員共同の印だ」。 かれの軍勢指揮は常に組織でした。秀吉には学ぶことがいくつかあります。一夜城 造りに地域の特別技能者、蜂須賀一族を登用したこと。おそらく一族は当時蔑視されていた はずです。秀吉はその風潮を退け織田家の正社員にしたわけです。突出した個人の手柄を嫌い、 竿先のをチーム全員の功績のシンボルとしました。 この協同を重んずるチームワークは木下隊の特性となります。部下はこの特性を誇りとし胸を 張りました。現場のモラール・アップの巧さについて、秀吉ほどの巧者はいないでしょう。

「チームワークを尊重し 問題は組織的に解決」

ペリーが日本にきて開国を迫った時、一挙に国内態勢を整備した老中首座(総理)阿部正弘(備後福山藩主)の 政治力と指導力はみごとでした。
・老中(閣僚)に譜代大名だけでなく外様大名も参加させようとした。それも大洋に面する地域に  領地を持つ者 (薩摩・宇和島・仙台・福井・佐賀等)を抜擢した。
・海防掛(のちの外務省)を設け、身分を問わずこの面の能力者を集めた(勝海舟・中浜万次郎など)。
・交渉国別にプロジェクト・チームを編成した。アメリカ組岩瀬忠震・井上清貞、ロシア組川路聖漠・  筒井政憲等。
・外国知識の摂取をすすめ、補助した。
・幕府の軍制を近代化しかけた。
最後の軍制改革が「しかけた」で終ったのは、その途中で阿部が死んでしまったからです。 まだ40前だったが惜しい人材でした。徳の多い人柄で表(男子の役所)でも評判がよかった。 リーダーの要件である情報力・問題点の整理・解決策の考究・越択肢の設定・決断力・実行等を すべて備えていました。阿部に育てられた人材 (大久保忠寛・勝海舟等)が、のちの“大政奉還”を 受容します。間接的に明治維新招来の時間短縮に寄与したといっていいでしょう。特に”風度”の 面がすぐれ、「阿部なら仕方がない、協力しよう」「他の奴ならことわるが阿部なら信頼できる」と いう人間が多かったようです。現在このことは重要です。冒頭でも書いたが 風度というのは 「何をやっているのか」という内容ではありません。「誰がやっているのか」という人物そのもの であるのです。相手に「この人間なら」と思わせる資質なのです。偉人のほとんどがこの”人たらし”の 素質を持っていました。”人たらし”の要素は“胸キュン”です。感動です。感動は誠意から生れます。 誠意のない偉人はいないのです。つまり

「誠意をもって困難に取り組めば 乗り越えられない危機はなし」

日本を動かすような活躍をした人々の行動や役割を考える時、まず時代背景をしっかり把握しておくことが 重要です。 これから紹介する「日本の100人」に於いても、なぜその人物の行動が日本を動かす事となったか 時代背景に触れてから解説する事にします。
時代別に分けて、個々の時代背景を記述してから日本を動かしたような活動の範囲、必要性を探りましょう。 私も記述しながら勉強する要素が強く、ご意見などあれば問い合わせサイト からどうぞ。♠♠



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時代別

めだか

★★原始時代〜平安時代★★

3世紀中後半から7世紀頃までは古墳時代と呼ばれ、6世紀後半から8世紀初頭までは、ヤマト王権の本拠が飛鳥に 置かれたことから飛鳥時代と呼ばれます。7世紀中頃の大化の改新も権力集中化の動きの一つであり併せて、 天皇支配を具現化するために律令制の導入を進め、8世紀初頭の大宝律令制定に結実しました。
日本という国号 もまた、大宝律令制定の前後に定められ初めて日本人の定義が出来た時代です。8世紀初頭から末にかけては 奈良時代と呼ばれ、奈良に都城(平城京)が置かれました。この時期は、律令国家 体制の形成と深化が 図られます。王土王民思想に基づく律令制は、天皇とその官僚による一元的な支配を志向しており、 民衆に対しては編戸制・班田制・租庸調制・軍団兵士制などの支配が行われました。
8世紀末頃から12世紀末頃までは平安時代と呼ばれ、桓武天皇の築いた平安京が都とされました。12世紀に入ると 王朝国家のあり方に変化が生じます。荘園・公領間の武力紛争に耐えられる武士が現地の管理者として在地領主化 する、荘園公領制と呼ばれる中世的な支配体制が確立し、同時期には上皇が治天の君として政務に当たる院政が 開始しており、この時期が古代から中世への画期であるとされています。平安末期には保元・平治両乱を経て 武士の軍事力が中央政界の政争の帰趨を左右するようになり、その結果、中央政界で政治の主導権を握った伊勢 平氏によって原初的な武家政権と評価される平氏政権が登場しました。 ♠♠


用明2年(587)〜推古30年(622) 聖徳太子と蘇我馬子の改革
厩戸皇子(聖徳太子)の国政改革
丁未の乱で物部氏を除いた後、蘇我氏の血を受け継いだ推古天皇、厩戸皇子、蘇我馬子の 共同統治体制による国政改革が始まる。

聖徳太子



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物部を除き崇峻天皇暗殺 馬子は「天下の政を輔く」
「欽明天皇の第四皇子・大兄皇子 (用明天皇)が即位したのは、敏達天皇14年(585)のこと。 蘇我稲目の孫ということもあったが、大勢を挽回しようとしていた物部守屋は、 用明崩御を機に穴穂部皇子を擁立して武備を固めました。ところが、稲目の跡を継いだ 馬子によって、穴穂部皇子を殺害されてしまいます。馬子は、諸皇子や群臣に呼びかけて、 守屋討伐の軍まで起こしました。これに応じたの は、泊瀬部皇子(崇峻天皇)、竹田皇子、 厩戸皇子らの他、紀氏、巨勢氏、葛城氏ら、蘇我氏と同族の氏族らであった。 馬子率いる連合軍は、河内国渋川郡にあった守屋の館を急襲。それでも軍事氏族で あった物部軍の抵抗は凄まじく、戦況は物部軍優勢であったが『日本書紀』は、矢 を雨のごとく降り注いでいた守屋を射殺し、連合軍に勝利をもたらした という。 その戦いの結果、物部氏の河内系嫡流が滅んで、蘇我氏全盛の時代が到来しました。


皇極元年(642)〜大化元年(645) 中大兄と鎌足が入鹿と対立
蘇我入鹿を抑えた乙巳の変
丁未の乱の後、蘇我馬子が厩戸皇子を支えながら、改革を推し進めたが、皇子に次いで馬子も 推古天皇も世を去ってしまうと次第に政局が混迷する。

蘇我入鹿



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蘇我本宗家の庶流にあたる 石川麻呂を味方に引き入れる
馬子の跡を継いだ蝦夷やその子・ 人鹿が、大王家をも凌駕する勢力を振るうようになってきます。 特に入鹿 は山背大兄王を死に追いやるなど、専横が目立ってきました。 この情勢に危惧を抱いていたのが 中臣鎌足です。鎌足は蘇我氏に変わる政権樹立を目論み、中大兄皇子 を担ぎ上げて人鹿暗殺の計を練っていきます。もともと入鹿と不仲だった蘇我本宗家の庶流にあたる 石川麻呂を味方に引き入れることで、三韓進 調の儀式における入鹿暗殺の計略が実現可能となってきました。 実行の日は、皇極天皇4年(645)6月12日。舞台は、飛鳥板蓋宮です。皇極天皇、古人大兄皇子臨席のもと、 入鹿が着座した後、石川麻呂によって上表文が読み上げられます。心なしかその声が震えていたのを人鹿は 見逃しませんでした。佐伯子麻呂らが斬りかかりました。 「私にいったい何の罪があるのか」との悲鳴な 叫びも虚しく子麻呂らにとどめを刺されてしまいました。


天智2年(663)〜天武元年(672) 白村江の戦いに敗れ戸惑う豪族
王位継承構想が生んだ壬申の乱
天智天皇亡き後、子・大友皇子と弟・大海人皇子による皇位継承にまつわる政争が近江朝方豪族と それ以外豪族とに別れて繰り広げられていた。

壬申の乱



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大海人皇子が吉野へ身を引いていた計画性
大海人皇子は吉野へと清く身を引いたが、近江朝の不穏な動きを知らされて「何ぞ黙して身を亡ぼさむや」 と悲痛な声をあげたというのが、『日本書紀」に記された情景です。ところが、やむなく挙したにも かかわらず、吉野出立後、即座に不破道を封鎖。東国のを結集させて連戦連勝。わずか1カ月足らずで戦 いを制したという手際の良さでした。「やむなく挙兵」というのは『書紀』編纂者の創作であつた。 大海人皇子側が、自身及び蔵野讃良皇女(後の持統天皇)との子・草壁皇子に皇 統を嗣がせることが目的だったからです。それを確実なものとするには、武力をもって戦うしかないとの 思いがあったのだろう。周到な準備を終えたのが吉野出立の6月24日のことでした。25日には伊賀から伊勢へ 向かい26日には不破道を塞いだとの一報が入ります。近江朝が徴兵した東国のが大海人皇子側の手に入った ものであった。不接道を塞いだ時点での勝敗は決していました。


天平元年(729)〜神護慶雲2年(768) 天皇制国家をめざす天武朝
律令国家の成立と仏教
大海人皇子が勝利した壬申の乱で大友皇子側に与していた中央豪族は没落。朝廷は天皇を中心と した統治体制の確立を律令と仏教によって目指そうとする。

律令国家の成立



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支配体制を律令と仏教で 整えながらも起こる権力闘争
朝廷は壬申の乱後、天皇を中心とした統治体制の確立を目指すようになりました。 改革の柱となったのが、唐から学んだ律令による統治で日本初といえる本格的な律令「大宝律令」 が制定されたのは、大宝元年(701年)のことでした。二官八省の官僚機構を整えるとともに地方に国、 郡、里という行政区画を設置。中央から派遣した国司が地方豪族である郡司に命を下すという行政システム を確立させました。これによって天皇を中心とする国家体制が整いました。しかし、律令制度の推進役で あったはずの藤原不比等自身が娘を天皇家の后妃とし、外戚として勢威を張るようになると、他民族との 対立が目立っていきます。藤原四兄弟が政権 握り、四兄弟死去後実権が移った橘諸兄に対して藤原広嗣が 反旗を翻すなど、政情は極めて不安定なものに。仏の加護により政情不安を和らげようとするが、数々の 政変や戦乱が起こりました。


天応元年(781)〜延暦13年(794) 兄弟王朝の迭立を招いた桓武
長岡京さらに平安京遷都 二所朝廷の争い
藤原薬子を平城天皇が尚侍として重用したことで、薬子が兄・藤原仲成とともに専横を極めるようになる。 嵯峨天皇と対立した後も大種となった兄弟王朝の迭立。

平安京遷都



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長岡京造営中の種継暗殺と 桓武の子安殿がからむ諸事件
延暦3年(784)桓武天皇によって平城京から長岡京に都を遷すとの詔が発せられるが、 造営中、造営使に任じられていた藤原種継が、矢を射られて殺害されてしまいます。 大伴継人らが主犯格として処罰されるが、桓武天皇の弟・早良親王までもが関与し ているとして捕らえられました。長男・ 安殿親王に跡を継がせるために、天皇自身が 弟を陥れたのです。親王が抗議の自殺を遂げるや、天皇ゆかりの人々が、次々と 謎の死を遂げていったため平安京へと遷るのでした。 桓武天皇崩御の後、安殿親王が天皇の願い通り即位(平城天皇)しました。 皇太子時代から寵愛していた藤原薬子を平城天皇が尚侍として重用したことで薬子が 兄・藤原仲成とともに専横を極めます。その後、病のため弟(嵯峨天皇)に譲位すると 弟帝は薬子の官位を剥奪。これに怒った平城上皇は葉子とともに平城京を脱出すると いう騒動を巻き起すことになります。


貞観8年(866)〜治歴4年(1068) 政争で文化を生んだ藤原氏
平安京の王朝文化と摂関政治
藤原一族の台頭によって、華やかな王朝文化も誕生。紫式部や 清少納言といった女流文学者も、貴族社会の中でその能力を存分に発揮していく

平安京の王朝文化



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唐長安を倣った壮大な都 外戚で権勢を極めた藤原氏
帝都にふさわしい四神相応の地と みなされた平安京は、東西4・5km、 南北5.2kmという、唐の長安を倣った都でした。 桓武天皇が平安と名付けただけあって安寧の地となることを期待されたが、遷都以降、そこで繰り広げられたのは皮肉にも実権を独占し続け た藤原氏による政治抗争でした。 まず嵯峨天皇から蔵人頭に任じられた藤原北家の冬嗣が、薬子の変で式家の仲成を追い落として以降、北家の台頭が目立つようになります。 次いで、冬嗣の子・良房が承和の変を起こし、伴健写、橘逸勢を流罪にし兄弟迭立から直系王統にして、 娘を文徳天皇の妃とし、生まれた子が 清和天皇となるに及びます。つまり良房は外祖父として実権を掌握。人臣初の摂政に補されたことが、藤原氏による摂関政治の始まりでした。 さらに、良房の跡を継いだ基経が関白に就任。その後、一時、菅原道真が重用されたものの、基経の子・ 時平が昌泰の変でこれを陥れて、 再び藤原一族による摂関政治が続きました。その数代後の道長の頃になると、3人もの娘を入内させ、外戚として一層の権勢を極めています。


承平2年(932)〜天慶3年(940) 武家の棟梁と呼ばれた諸氏族
軍事貴族だった源平両氏と奥州藤原氏
武力無くして秩序を統制することが難しくなり、各地ではもめごとを自力救済する。 11世紀半ばになると、不穏な空気漂う京の都を尻目に、東北地方に奥州藤原氏が繁栄。

源平両氏



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臣籍降下の源平、藤原氏 秩序統制に必要な武力に
藤原北家の良房が人臣初の摂政に補されて藤原氏による摂関政治が開始されてから有余年後の 天慶2(939)年、平将門が常陸・下野・ 上野国府を襲撃して、新皇を称する事件が起きました。 西国でも、膝原純友が各国の受領を襲撃し、国府を攻撃 するなど、朝廷に坂旗を翻す事件が 頻発します。いずれも、受領支配に不満を募らせた土着豪族の蜂起に端を発していました。 臣籍降下によって地方へと下った元皇族たちの中には、現地に土着して武装化し、その軍事力 によって頭角を現す武人が増えはじめました。相武大皇を始祖とする桓武平氏や、嵯峨天皇を 祖とする嵯峨源氏、清和天皇を祖とする清和源氏などが その代表格です。その軍事貴族た ちが、自己の栄達を目指して、藤原摂関家に取り入ってその身辺警護に当たるようになって いきました。各地で 反乱が新発するようになると、軍事力に秀でた彼らが朝廷の意を受けて 反乱の平定に赴くようになりました。


保元元年(1156)〜寿永4(1185) 天皇家と摂関家の権威失墜
武家政権が成立した源平争乱
摂関政治、院政と続いた貴族・朝廷支配が、武士の台頭によって揺らぎ、 やがて支配者が変わる。その変化を牽引したのが平清盛と源頼朝だった。

源平争乱



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後白河天皇と平清盛強烈な個性がぶつかり合う
保元元年(1156)7月2日、島羽上皇が崩御し、保元の乱の幕が開けました。同5日、後白河天皇方は、崇徳上皇と藤原頼長に謀反の疑い ありとし武士を集め、崇徳方も頼長とともに白河殿に入り源為義らが参じます。11日明け方、平清盛・源義朝ら600余騎が白河殿 を奇襲し、悪徳上皇は捕らえられ讃岐に配流、頼長は流れ矢にあたり陣没しました。崇徳・頼長は鳥羽上皇に退けられており、島羽 亡き後、彼らの復活を阻止する必要がありました。また本来、鳥羽上皇は近衛天皇系の皇位継承を望んでいたが、近衛天皇が天折し ため後白河→二条天皇という継承が選択され、これを確実に実現させるためでもありました。乱後、後白河天皇から二条天皇への譲 が行われたが、既定路線の譲位に後白河は不満でした。敏腕の政治家信西と、将来を戦望された二条天皇がいては後白河の将来は 絶望的です。こうした閉塞状況を打開したのが、後白河の龍臣藤原信頼によるクーデター・平治の乱です。

源平争乱
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信頼は義朝をとりこみ、信西を武力排除し二条天皇を内に出閉。しかし、天皇が清盛の六波羅邸へ逃れると形勢は逆転、信頼らは 謀反人として討伐されました。後白河はいち早く清盛方に転じ、清盛も二条・後白河のバランスをとることで政局の安定を図ります 二条の天折で後白河・清盛は連携し、後白河院政は安定を、清盛は平家一門の繁栄を試歌します。しかし強力な個性を持つ両者の対 立は時間の問題でした。後白河は院権力の強化を、清盛は独自の王権を目指して激しく衝突します。治承3年のクーデターで清盛は 後白河院を幽閉し、高倉院政・安徳天皇即位による平家王権を創出します。後白河皇子以仁王はこれに反発し挙兵しました。 東国で挙兵した源頼朝は、鎌倉を本拠に定めると、後白河の要請に応えて上洛軍を派造、木曽義仲を一蹴し、平家も一ノ谷の合戦 で退けました。引き続き山陽道・北九州の平家の拠点を陥落させ、壇ノ浦で平家を滅亡へと追いやりました。これら西国での合戦を 指揮したのが源義経であり、在京代官として政治・軍事両面で活躍したが、文治元年10月、頼朝に造反挙兵します。頼朝追討は不首尾に 終わったが、頼朝はこれを好機とし後白河に諸国守護地頭の設置を認めさせ、鎌倉幕府の骨格はここに確立しました。



人物一覧表♥♥(人物名をクリックすると詳細説明となります!!)
人物名概要生存期間人物サマリー
red 平清盛 貴族政権を我がものとし一門に栄華をもたらした平氏の棟梁 西暦1118年〜1180年 後世に数多くの偉業を残した革命児!その実態は?

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めだか

★★鎌倉時代〜戦国時代★★

12世紀末頃から14世紀頃までは鎌倉時代と呼ばれ、中央の公家政権と関東の武家政権が並立します。源頼朝を 首長とする鎌倉幕府は、治承・寿永の乱で勝利して平氏政権を打倒し、その過程で守護・地頭補任権を獲得し、 朝廷(公家政権)と並びうる政権へと成長しました。13世紀前半の承久の乱の結果、公家政権は武家政権に 従属します。その後、御家人筆頭である北条氏が幕府政治を実質的にリードする執権政治が確立しました。
14世紀頃は南北朝時代と呼ばれ、大覚寺統の南朝と足利氏が支援する持明院統の北朝に朝廷が分かれます。 14世紀頃から16世紀頃までは室町時代と呼ばれ、京都の室町に幕府が置かれます。
足利尊氏が南朝に対して 北朝を擁立し室町幕府を開きました。京都に本拠を置いた幕府は、朝廷の権能を次第に侵食したため、朝廷 (公家政権)は政治実権を失っていきます。各国に置かれた守護も半済等の経済的特権の公認や守護請の拡大 などを通じて、国内支配力を強め、国衙機能を取り込んでいき、守護大名へと成長して、守護領国制と呼ばれる 支配体制を築きました。こうして幕府と守護大名が構築した相互補完的な支配体制を室町幕府-守護体制といいます。
15世紀後期から16世紀後期にかけての時期を戦国時代と呼びます。この時代は、守護大名や守護代、国人などを 出自とする戦国大名が登場し、それら戦国大名勢力は中世的な支配体系を徐々に崩し、分国法を定めるなど 各地で自立化を強めました。一円支配された領国は地域国家へと発展し、日本各地に地域国家が多数並立します。 この地域国家内における一元的な支配体制を大名領国制といいます。地域国家間の政治的・経済的矛盾は、 武力によって解決が図られました。
そうした流れの中で16世紀半ばに登場した織田信長は、兵農分離などにより 自領の武力を強力に組織化して急速に支配地域を拡大していきます。この時代は、農業生産力が向上するとともに、 地域国家内の流通が発達し、各地に都市が急速に形成されていきました。また、ヨーロッパとの交易(南蛮貿易) が開始し、火縄銃やキリスト教などが伝来し、それまでの戦術や日本の宗教観念に大きな影響を与えました。
織田信長は室町将軍足利義昭を放逐し、室町幕府に代わる畿内政権を樹立した。しかし、信長が本能寺の変により 滅ぼされると、天下統一の事業は豊臣秀吉が継承することとなりました。
秀吉は、信長の畿内政権を母体として 東北から九州に至る地域を平定し、統一事業を完了します。秀吉もまた中世的支配体系・支配勢力の排除・抑制 に努め、太閤検地の実施を通して荘園公領制・職の体系を消滅させ、これにより中世は終焉を迎えました。 ♠♠

永久3年(1221) 史上初! 天皇が戦に敗れて流罪
北条執権体制が確立された承久の乱
鎌倉幕府が成立すると朝廷との確執が次第に表面化し全面戦争へ。 それはまた、執権政治という新たな政治体制への移行でもあった。

承久の乱



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3代将軍実朝の死によって朝廷と幕府の融和策が破綻
承久の乱は、承久3年(1221)5月15日から6月5日までの朝廷と鎌倉幕府の戦争です。 朝廷では後鳥羽上皇の院政が23年続き、幕府では正治元年(1199)正月の源頼朝の薨去以来、内部抗争が続いていました。同年4月に 「十三人の合議制」が成立したが、御家人たちは主導権争いから抗争を開始。その過程で2代将軍頼家・3代実朝が殺され 源氏将軍家は滅亡。抗争勝利者は頼朝の妻北条政子の弟執権義時でした。 後鳥羽上皇は幕府に融和政策で臨んでいたが、実朝が頼家の子公暁に暗殺され破綻。主人を失った幕府は、上皇に皇子を将軍 としてほしいと、政子の名で願い出ます。だが、上皇は拒絶し、龍姫の所領の地頭罷免を宣旨で命じました。これを義時がかたくな に拒絶すると、上皇は義時追討の宣旨を発給し、幕府の京都出先機関「京都守護」を攻撃して、戦乱は勃発したのでした。


第1回文永11年(1274) 第2回弘安4年(12801) 元寇(蒙古襲来)
世界最大規模の艦隊を迎撃
執権政治開始から約8年後、未曾有の外敵がやって来た。巨大帝国・元による「元寇」である。 時の執権・8代時宗の苦闘が始まる。

元寇




元軍と対決した得宗家・鎌倉幕府
蒙古(モンゴル)帝国の5代皇帝フビラィ汗(ハン)は、中国宋朝(南宋)侵略と経済的目的から侵攻を計画します。国書を送 られた日本では、朝廷は返書を返そうとしたが幕府の反対で中止。北条時宗率いる幕府は侵攻必至と考え、臨戦態勢の構 築を急ぎました。双方の国情をよく理解しないまま2回 の戦闘が行われ、日本は侵攻を阻止したが、防衛は鎌倉幕府滅亡まで 続行されました。
文永の役 文永11年、元・漢・高麗連合軍が軍船900艘(諸説あり)で対馬・壱岐を経て博多に上 陸。この時に「神風」が吹く。
弘安の役 弘安4年、第2回来襲。朝鮮半島と寧波の二方面から進撃してきた。戦いは約3カ月に 及ぶが再び「神風」が吹く。

元享4年(1324)〜正平7年(1352) 鎌倉幕府 滅亡と建武新政の混乱
足利尊氏と南北朝分立
北条氏による独裁体制への不満は、京都と東国でうごめいていた。朝廷では後醍醐天皇、東国では 足利尊氏らが討幕の機会をうかがっていた。

足利尊氏



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目まぐるしく動く相関と戦況...果たして勝者は?
正中元年(1324)の正中の変で、後醍醐天皇の討計画は露見し、側近の日野資朝・日野俊基らは流罪に処せられます。 元弘元年(1331)の元弘の変でも計画は露見し、後醍醐 天皇は隠岐へ配流されてしまいます。このとき、後使醐天皇に従った 楠木正成は、赤坂城を落とされたが、1年後の元弘2年、赤坂城の詰の城である千早城で幕府軍を迎え撃ちます。 そのころ、隠岐を脱出した後醍醐天皇が討幕の維旨を全国に発しており、播磨の赤松円心(則村)のほか、足利 尊氏や新田義貞らが後醍醐天皇方につきます。

南北朝分立
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元弘3年、幕府に反旗を翻した足利尊氏は、赤松円心らとともに六波羅探題を攻め落とします。同時に、上野国で 挙兵した新田義貞が都府の本拠地である鎌倉を陥落させ、北条高時を自害に追い込んでいます。鎌倉幕府の滅亡後に 後醍醐天皇が開始した「建武の新政」は、天皇を中心とする政治体制を目指しており、 武士には不評だった。 足利尊氏は、北条高時の遺児時行が鎌倉幕府再興のために兵を挙げた中先代の乱を機に後醍醐天皇と決別します。 尊氏は、後醍醐天皇の命を受けた北畠顕家に押されて九州に追われるが、勢力を立て直して畿内に向かうと、 新田義貞・楠木正成を湊川の戦いで敗りました。 勢いにのった尊氏が光明天皇を京都に擁立すると、後醍醐天皇は奈良の吉野へ逃れ、独自の朝廷を開きます。 こうして、後醍醐天皇の南朝と足利尊氏が奉じる北朝が争う南北朝の争乱に突入しました。 京では、足利尊氏が光明天皇から征夷大将軍の宣下をうけ、室町幕府を開き、南朝を圧倒していきます。 後醍醐天皇の崩御後も、南朝では北畠親房を中心に北朝との対峙を続けるものの、新田義貞や楠木正成が討ち死 にして勢威が衰えていきました。一方、北朝では尊氏の弟直義が執事の高師直と対立。師直に敗れた直義は 出家していったんは恭政から退くものの、挙兵したことで観応の擾乱に突入しました。直義は毒殺されたといいます。 その後、直義の養子直冬が南朝に帰順して足利尊氏・義詮に抵抗し、一時は、京を占拠したが、奪還され 中国地方への逃亡を余儀なくされます。尊氏の死後、2代将軍となった義詮が中国地方を平定し、一連の動乱 を終結させたのでした。

応仁元年(1467)〜文明9年(1478) 将軍家と守護家の家督争い
室町幕府衰退と応仁の乱
室町幕府成立から約100年が過ぎ8代将軍・義政の治世、京都を焼き 尽くす争乱が勃発。幕府の権威は失墜し群雄割拠の時代が始まった。

応仁の乱



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将軍家と守護の家督相続が複雑に絡み合い...
応仁の乱の発端は、将軍家と守護家の家督をめぐる紛争が大きな要因でした。実子のなかった足利義政は弟の義視を還俗させ将軍候補にした が、義政と日野富子の間に義尚が誕生すると、状況は一変します。後継者をめぐり、義政と義視は対立します。細川勝元は、山名宗全の女婿でした。 しかし、勝元は嘉吉の乱で没落した赤松氏を支援し、宗全を刺激します。というのも、赤松氏の旧領国である播磨などは、山名氏が一族で支配して いたからでした。両者の対立は、ほかの守護家の家督紛争とリンクしていきます。畠山氏も政長と義就が家督をめぐって争ったが、当初、勝元も宗全も 政長を支持していました。しかし、政長と対立する義就が宗全に接近。家督相続が激化します。斯波氏も義廉と義敏が家督を争っていたが、義康を支えたのが宗全で あり、勝元が義敏を支援したので、代理戦争の様相を呈したのでした。

天正10年(1582)6月2日〜天正10年6月27日 天下目前まで迫った覇王の突然の死と 信長後継を決定した政治的パフォーマンス
本能寺の変と清洲会議
明智光秀による織田信長殺害は、戦国史上最大のセンセーショナルな出来事であった。 事件に関与した主要人物たちの立場、関係性をここに解き明かす。

本能寺の変



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信長、光秀、秀吉 天下はこうして変遷した
天正10年(1582) 3月11日に甲斐の武田勝頼を討った織田信長は、 居域の安土城に戻ります。朝廷は信長に太政大臣・関白・ 征夷大将軍のいずれかの官職を与えることを打診します。これを「三職推任」とよびます。しかし、これに対して信長は、 回答を 保留しました。5月15日、安土城の信長のもとに、徳川家康と穴山梅雪が訪れました。家康は論功行賞で駿河一国を 与えられた御礼を、武田氏重臣であった梅雪は助命の御礼を、それぞれ述べようとしたのでした。信長は、明智光秀に 命じて、家康と梅雪を饗応させます。ちょうどそこに、備中高松城で毛利輝元の勢力と対峙していた羽柴秀吉から信長のもとに 救援の要請が入ります。信長は、光秀に秀吉の増援を命じるとともに、自らも出陣する用意を整えます。そして、5月29日に 安土を出立した信長は、その日のうちに入京して本能寺を宿所とし、嫡男の信忠は妙覚寺を宿所としました。 信長は、しばらくの問京にとどまり、諸将が集結するのを待つとともに、「三職推任」に対して朝廷に正式な回答をする つもりだったとみられます。翌6月1日、信長は本能寺の書院において、公家を招いて茶会を開いています。さらに信長は、 囲碁の対局を観覧してから床についたといいます。そして、明けた6月2日の払暁、明智光秀が本能寺を急襲したのです。 信長は自ら武器を手にして抵抗したものの、衆寡敵せず自害しました。その後、明智光秀の軍勢は、妙覚寺 に隣接する 二条御所に籠った信忠を襲撃し、自害に追い込んでいます。このとき、備中で本能寺の変を知った羽柴秀吉は、毛利輝元側と 和睦すると、「中国大返し」といわれる機敏さで後内に戻ります。そして、明智光秀の与力だった池田恒興・中川清秀・ 高山右近らを味方につけるとともに、四国攻めのため大坂に駐留していた織田信孝,丹羽長秀の軍勢も合わせ、6月3日 の山崎の戦いで明智光秀を敗死に追い込んだのです。本能寺の変によって、信長の政権構想は白紙に戻り、家督を継いで いた嫡男の信忠を失ったことで後継者をめぐる対立が生じることになりました。そうしたなか、清洲会議で織田家の家督に 決まった三法師の補佐役という立場で、羽柴秀吉が勢力を拡大さ せていことになります。

慶長5年 9月15日 石田三成VS徳川家康 200を越す大名が東西に分かれて雌雄を決する!
天下分け目の戦い 関ヶ原合戦
慶長5年、石田三成は反徳川の兵を挙げ、百戦練磨の徳川家康に戦いを挑んだ。 三成、家康、そして東西両軍の主要部将を中心にその人物像に迫る。

関ヶ原合戦



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家康、秀吉亡き後の一 政権争奪戦を制す
豊臣秀吉は、「関東の覇者」として君臨した北条氏政・氏直父子を屈服へと導くことにより、天下統一という 偉業を達成しました。小田原城が陥落した天正18年(1590)の段階において、秀吉は引蔵に達しており、もしも、 この時点において、子宝に恵まれていれば、豊臣の天下は数百年のスパンで継続していたかもしれません。 現実の歴史に話を戻します。秀吉は、自身の死期を悟ると、徳川家康に対し、五大老の筆頭として秀頼を守り、 豊臣の天下が継続するように懇願しました。秀吉病没の時点において秀頼は 6歳に過ぎず、天下を統治する能力 はありませんでした。対する家康は、秀吉の遺命を涙ながらに受け入れたにもかかわらず、慶長3年(1598)8月12日、 秀吉が病没すると、2年後の9月5日、関ヶ原合戦で勝利を収めるまでを逆算するように、天下墓奪への策謀を 開始します。 「西軍を率いて家康に決戦を挑んだ 石田三成。主君秀吉から受けた恩義に報い、豊臣の天下を 守るため、家康の野心を見抜き、敢然と立ち向かいます。家康にしてみれば、三成は天下簒奪への最大の障害 であったことから、三成を失脚させるため、豊臣政権を内部分裂へと導きます。慶長4年閏3月、反三成派の 加藤清正や福島正則らが大坂で決起するという大事件が勃発。家康は、この七将襲撃事件の責任を三成に 背負わせ、五奉行から 解任することに成功しました。三成は、政権の中枢から追放されても、反撃のチャンスを 狙い続けます。 慶長5年6月、家康は、自身の命令に従わない上杉景勝を征討するため、会津に向けて出陣。 三成は、家康が畿内を留守にした間隙を突いて挙兵しました。五大老の毛利輝元と宇喜多秀家を味方に引き入れる ことに成功。 また、西国の有力大名が三成の挙兵に呼応したことから、反家康方は西軍と呼ばれ、家康の元に 結集した勢力は、東軍と称されました。慶長5年9月5日、関ヶ原盆地を舞台にした天下分け目の決戦では、家康 率いる東軍が勝利を収めました。慶長3年5月8日、大坂城は陥落し、秀頼が覚悟の自害を遂げることにより、家康に よる天下梨香の野望はついに完結したのでした。


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red 織田信長 戦国に誕生した異端児。日本統一を志して上洛するが・・・。 西暦1534年〜1582年 冷酷さと優しさが混在した戦国のカリスマ

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★★江戸時代★★

慶長8年(1603年)から慶応3年(1867年)までは江戸時代と呼ばれ、徳川家康により江戸に江戸幕府が置かれました。 秀吉の死後、徳川家康は関ヶ原の戦いに勝利して権力を掌握すると江戸に幕府を開き、大坂の役で豊臣氏を滅ぼします。 この後幕府は、17世紀中葉までに武家諸法度の発布、参勤交代の義務化、有力大名の改易などを通して、 諸大名との主従制を確固たるものとし、また朝廷統制を強め、幕府官僚機構を整備しました。
一方で、社会の安定化に伴い、耕地開発の大事業が各地で実施され、倍増した耕地面積は食糧増産と人口増加を もたらし、村請を通じて幕府財政や藩財政を支えるとともに、全国的な流通経済を大きく発展させました。 以上のように、江戸時代前期に確立した支配体制を幕藩体制といいます。
19世紀中頃までに、国内の社会矛盾と国外からの圧力(ロシア、イギリス、アメリカ船の接近)により、 幕藩体制は限界を迎えていました。同後半の黒船来航と日米和親条約締結による開国を契機として幕府の管理 貿易(鎖国)は解かれます。結果として幕府の威信は低下し、朝廷の権威が増大することになり、幕府は 大政奉還により権力の温存を図ったが、倒幕派の薩摩藩、長州藩らとの内戦(戊辰戦争)に敗北し、瓦解しました。 ♠♠

慶長19年(1614)〜慶長20年(1615) 発端は方広寺鐘銘事件
豊臣家最期の一戦 大坂の陣
江戸幕府開府後も、なお大坂城に健在だった豊臣家。幕府にとっては脅威になりかねないとして、 家康と秀忠は戦国最後の大戦へ臨む。一方の豊臣家も真田信繁らの牢人衆を集め、必死の抵抗を見せた。

大坂の陣



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関ヶ原から14年後 再び起こった東西決戦
関ヶ原の戦いから3年後の慶長8 年(1603)、家康は朝廷より征夷大将軍に任じられました。 江戸(徳川)幕府の開府、つまり江戸時代の始まりです。ところが、家康は2年後の慶長10年、早くも将軍職を辞し、嫡 男の秀忠を2代将軍に据えました。将軍 職が徳川家による 世襲制であることを世に知らしめるためでした。2代将軍となった秀忠を幕府の本拠である江戸城に住まわせ、家康水自らは大御所として 駿府城に隠居して二元政治体制を敷きます。家康・秀忠父子は、この体制のもと全国を統治するが、徳川政権安定にいたるまでに は最後の大仕事が残っていました。慶長 19年に始まった 「大坂の陣」がそれです。同年7月の方広寺鐘銘事件をきっ かけに両家の仲は険悪化。豊臣秀頼の大坂城退去を求める徳川方に対し、豊臣方は徳川家との取次役を務めて いた家臣・片桐且元を追放し、事実上の宣戦布告を行います。これを機に始まったのが、大坂冬の陣です。1月から大坂城での籠城を開始した豊臣方に対し、 徳川方は南側から攻めるが、豊臣軍の将として参陣する真田信繁(幸村)など浪人衆の活躍に阻まれて大きな損害を受けました。徳川方は力攻めをせず、包囲を続け、大砲を浴びせながら和平 交渉に乗り出します。豊臣方がこれに応じた結果、大坂城は和議の条件として外堀を埋められてしまいます。翌慶長20年5月、大坂夏の陣が始まりました。冬の陣と違い、丸裸同然とされた大坂城は用を成さず、 決着は3日間でつきました。最終戦となった5月 大坂の陣は終わりました。最終戦となった5月7日(天王寺・岡山合戦)真田信繁や大野治房が奮戦し、家康や秀忠の本陣を脅かすが、数に勝る徳川軍は 徐々に優勢となり、豊臣方の敗色は強まります。

太平の世の到来のため 非情に徹した秀忠の決意
真田信繁や後藤基次など、主だった将が次々と討死し、落城間近となり、豊臣秀頼の妻・千姫が城外へ出 ます。千姫は父・徳川秀忠の陣を訪れて夫・秀頼の助命嘆願を申し入れるが、秀忠は非情にも大坂城への 総攻撃を命じました。その夜、大坂城は陥落。大坂の陣は終わりました。

享保元年(1716)〜 延享2年(1745) 困窮した幕府財政を立て直す!
税制改正と質素倹約と実践 享保の改革
「太平の世」が続き、幕政が停滞し、また何よりも財政難に陥っていた幕府。その体 制の見直しが迫られていたなか、8代将軍となった吉宗が再建に乗り出す。

享保の改革



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享保の改革を主導した 徳川吉宗の狙いとは
260年余もの長きにわたった江戸幕府の政治は、この間、何度も財政難や災害、飢饉などの危機に見舞われました。幕府は その都度、立て直しをはかり、財政が圧迫されていきます。享保の改革は、江戸時代中期以降の「三大改革」のうち、最初に 行なわれたものです。これを主導したのが8代将軍・徳川吉宗でした。吉宗はもともと紀州藩主であり、その藩政で培った 経験を活かし、自らが最初に任命した老中の水野忠之を農財政担当の勝手掛老中に任命し、彼を中心に財政再建に取り組みました。 吉宗がまず取り組んだのは質素倹約を心がけることや、武芸と学問の奨励です。「太平」が長く続いたことで、生活水準が 上がり支出が増えました。その一方で乗馬や刀槍をうまく使えなくなるなどの緩みが生じていました。武士は文武両道に通じ、 質素に暮らさねばならないと、これを引き締めたのです。その一環として、綱吉の時代から禁じられていた鷹狩りを復活させ、 軍事調練や民情視察も兼ねて積極的に実施しました。

米将軍と呼ばれた吉宗 年貢の引き上げで財政再建
政治面では、まず「上米の制」を定めました。これは各藩に対して所領1万石につき100石の米を幕府に献 上させる代わりに、参勤交代時の江戸在府期間を1年から半年に緩和した制度でした。次に行なったのは 増税でした。毎年、米の取れ高によって決定されていた年貢高(検見法)を改め一定量に固定する「定免法」 を採用。そして新田開発で収穫高を増大させた分、それまで四公六民だった年貢率を五公五民に引き上げました。 これらの改革の結果、享保2年から6年までの3年間の年貢総額は、年平均16万石の増加がありました。また 法を整備するため、公正な裁判ができるよう公事方御定書を作成。大岡忠相らに命じて「相対済令」を定め ました。今でいう示談の促進を図るものでした。これらの改革は吉宗の治世下では一定の成果をあげ、幕府権 威の回復にもつながりました。ただ重税や倹約を強いたため、享保年間では一揆が頻発しているように、農民を 苦しめたことも事実でした。

嘉永6年(1853)〜慶応2年(1866) 長らく続いた泰平の世に激震
異国からの脅威と動乱の始まり 黒船と尊攘が呼ぶ嵐
250年にも及ぶ泰平の世が動き出した。 深い安寧な眠りから突然起こされた日本は大混乱へと 陥っていく......。

黒船と尊攘



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泰平の世が終わり新しい時代への足音が
江戸幕府264年の歴史を終わらせた幕末の動乱は、嘉永6年(1853) 6月のペリー来航が最大のきっかけでした。オランダを除く 欧米列強は日本に国交つまり外交関係の樹立を何度となく求めてきたが、幕府はその要求を拒否し続けました。ところが、 軍事力を誇示するペリーの前に幕府は屈服し、翌7年(1854)3月に日米和親条約を締結してしまいます。この政治決断により、 幕府の武威は大きく傷付きました。武力をもってアメリカの要求を拒否できず、逆にその武力に屈したからです。和親条約を 締結して外交関係が樹立されると、今度は自由貿易の開始を意味する通商条約の締結をアメリカは迫ってきます。 安政5年(1858)6月、幕府はこの要求にも屈したため、その武威はさらに傷付き、幕府頼みにならずとの意識が社会全体に広まって いきます。そのうえ、大老・井伊直弼を首班とする幕府が朝廷の勅許を得ずに条約の締結に踏み切ったため、朝廷やき王攘夷の 志士たちは猛反発します。譜代大名とは違って幕政への参画を認 められなかった水戸・福井藩など親藩、薩摩・土佐藩など 外様大名も井伊の政治責任を追及したが、その裏には家定の後継問題で政敵の井伊を追い落として悲願の国政進出を実現したい 狙いが秘められていました。井伊は安政の大獄と呼ばれる反対派への弾圧を強行してその動きを封じ込めるが、それはみずからの 命を縮め、幕府の威信を大いに失墜させる結果となりました(桜田門外の変)。 対照的に朝廷の権威が高まるなか、幕府は公武合体により巻き返しを期します。その象徴として将軍・徳川家茂の御台所に 孝明天皇の妹・和宮を迎えたが、文久2年(1862)正月、これに反発する尊王攘夷の志士は老中・安藤信正を襲撃して重傷を 負わせた(坂下門外の変)。幕威はさらに低下し、尊王攘夷運動が高揚する。薩摩・長州藩など外様大名が朝廷を後ろ盾に国政に 進出しはじめ、政局の主導権を握ります。

戦乱の時代に突入する各々が己の意を貫く
幕府は攘夷を求める朝廷からの督促を拒み切れず、翌3年(1863)5月10日を攘夷の期日にすると約束してしまいます。 その裏には攘派公家の後ろ盾に収まっていた長州藩がいました。その日、長州溢は下関海峡を通航する外国船に砲撃を加えます。 しかし、すぐさま報復の砲を受け、元治元年(1864)7月には4ヶ国連合艦隊により下関砲台が占領されました。1年前の文久3年7月には、 陸摩藩も生友事件の賠償金支払いなどを求めて鹿児島湾に入ってきたイギリス軍艦と戦火を交えていました。文久3年を機に、 対外戦争が現実のものとなったが、それに誘発される形で国内でも各地で戦乱が勃発しはじめます。それまでは、過激な攘夷派 志士による要人暗殺、外国人襲撃事件の時代であったが、幕府相手の戦争がはじまります。討幕のための戦いであった。8月に 大和で天誅組の変、10月には但馬で生野の変が起き、内は戦乱の時代に突入します。元治元年3月には水戸藩で天狗党の乱と 呼ばれる内戦が起きました。7月には京都で禁門の変が起き、長州潘が隣摩藩や会津湖と戦火を交えました。同年12月には 長州藩でも激しい内戦が起き、対幕府強行派の高杉晋作が藩を牛耳ることに成功するが、これは第2次長州征伐の呼び水と なりました。 日本が内乱状態に陥っていくなか、慶応3年(1867) 10月に5代将軍慶喜は大政を朝廷に奉還し、動乱のなか 幕府はみずから倒れたのです。


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red 徳川慶喜 徳川政権に幕を引いた「最後の将軍」の76年 西暦1837年〜1913年 期待を集めた水戸の貴公子

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★★明治時代〜大正時代★★

明治年間(1868年 - 1912年)は明治時代と呼ばれます。倒幕派の諸藩を中心とする維新政府は戊辰戦争を経て 旧幕府勢力を退けると、明治新政府を樹立しました。新政府は天皇大権のもと欧米の諸制度を積極的に導入し、 廃藩置県、身分解放、法制整備、国家インフラの整備など明治維新と呼ばれる一連の改革を遂行しました。 その過程で日本の境界領域であった琉球王国や、樺太を除く蝦夷地(北海道の大部分と千島列島)、小笠原諸島を 完全に日本の領域内に置き、国境を画定しました。不平等条約の改正をするため、帝国議会の設置や 大日本帝国憲法の制定など国制整備に努める一方で、産業育成と軍事力強化(富国強兵)を国策として推し進め、 近代国家の建設は急速に進展しました。その後、日清戦争と日露戦争に勝利を収めた後、列強の一角を占める ようになり、国際的地位を確保していく中で台湾統治や韓国併合を行っていきました。
大正年間(1912年 - 1926年)は大正時代と呼ばれます。日本は日英同盟に基づき第一次世界大戦に参戦して 勝利し、列強の一つに数えられるようになりました。米騒動を契機とする大正デモクラシーと呼ばれる政治運動の 結果、アジアで最初の普通選挙が実施され政党政治が成立したが、同時に治安維持法が制定され共産主義への 弾圧が行われます。日本は大戦特需による未曾有の好景気に沸くが、大戦が終わるとその反動による深刻な 不景気に苦しみ、そこに関東大震災が混迷する状況に追い討ちをかけました。♠♠

慶応3年(1867) 〜明治2年(1869) 銘々の信念がぶつかり合った内乱
大政奉還で口火を切る 日本の行く末と決した戊辰戦争
大政奉還から戊辰戦争まで疾風のごとく時代が動いた。志士たちは自らの正義を貫き、 やがて国を2分した戦争へと向かうことになる。

戊辰戦争



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大政奉還にいたるまでの策動と争乱
江戸開幕から2世紀半を迎える頃、内政は混乱、対外国政策に苦慮する内憂外患の時節が到来していました。その先には弱体化する 幕府が朝廷に政権を返上する大政奉還策がありました。だが、奉還の実現にいたるまでには、多くの策動と争乱がありました。 文久3年(1863)、公武合体を奉じる会津藩と薩摩藩が、朝廷内工作により反幕府を標榜する長州藩の御所門の警備を解任。 参内を禁じられた三条実美ら親長州派公家は離京します。翌年6月、京都守護職松平容保旗下の新選組らが、長州系人物を 捕殺した池田屋事件が勃発。悲報は前年の屈辱からの出現を期す長州を刺激、一同は大挙して上京したが、御所周辺などで 公武合体勢力との戦闘(禁門の変)を引き起こし敗走しました。久坂玄瑞や有為の者たちを失った長州は、御所への敵対勢力と なりました。長州国内は幕府恭順派が対応するが高杉晋作が決起、多くが民兵からなる奇兵隊を結成するなどの秘策で、 藩政から幕府恭順派を駆除しました。薩摩藩内の重要人物たちにも変化が生じていた。幕府の第一次征長参 謀の西郷隆盛は 藩主父子の謝罪状提出などの寛大な措置を提示し、撤兵に踏み切ります。大久保利通は元治2年(1865)2月、幕府が、決起の末に 降伏した水戸天狗党員350名を処刑したことを知り、手紙に「聞くに絶えぬ次第」、日記には「幕(府)滅亡の表」と吐き捨てます。 やがて、薩摩藩は坂本龍馬の仲介で、長州藩との歴史的和解(薩長同 盟)を確認するにいたります。この同盟 は、続く第2次 長州征伐戦に奏効し、長州軍の実質勝利を招きました。弱体化する幕府に大政巡は必至となります。実力者の前藩主・山内容堂を 動かした土佐藩の後藤象二郎や、薩摩の小松帯刀からの行動の末、慶応3年(1867)10月13日、将軍・徳川慶喜は政権返上の 了解にいたりました。大政奉還後、あくまでも討幕に固執する岩倉具視を中心とした勢力は、ほどなく王政復古を発令させました。 政府の新執行体制が下され、大政奉還後も、諸藩の主導権を握ろうとした徳川慶喜の思惑を粉砕しました。

大政奉還以降明治維新までの動き
慶喜は大坂城に退いたが、事態を承諾できない旧幕臣や会津藩らは、慶応4年1月3日、薩摩藩を糾弾する「討薩表」を携えて入京を 目指しました。だが拒否する新政府軍との間で戦闘(鳥羽伏見戦争)が勃発しました。戦場に錦旗が出現したことから、旧幕府軍は 総崩れとなり、慶喜は戦争の帰趨を見ぬまま江戸へ戻りました。勢いづいた新政府軍は江戸総攻撃を視野に入れます。幕閣の勝海舟は 慶喜の想願を受け入れ、難局の収束に出馬、旧知の新政府軍参謀西郷隆盛と会談し、江戸総攻撃回避に成功、慶喜の生命も保証されました。 だが、上野に駐屯した彰義隊や北を関東に進出した旧幕府脱走軍、抵抗姿勢を崩さない会津流とこれを応援する奥羽越列藩同盟の 諸藩などとの間に、その後も新政府軍との激戦が展開されていきます。そして、明治2年(1869)5月17日、箱館五稜郭に拠った榎本武揚 軍が降伏、1年数ヶ月に及んだ長い内戦は終結し、新たな時代が始まったのでした。

明治3年(1870)〜明治10年(1877) 新政府内の対立に端を発した
日本史上最後の内戦 西南戦争
戊辰戦争で終結したかに見えた動乱。新政府に異を唱える不平不満が新たな波となり、 世は日本史上最後の内乱に向かう

西南戦争
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西南戦争

明治新政府に異を唱えた最後の武士たちの戦い
維新をなしとげた明治新政府にとって、乗り越えなければならなかった最後の障壁が、西南戦争でした。明治6年(1873)10月、 明治政府は征韓論をめぐって閣僚たちが対立し、西郷隆盛、江藤新平、板垣退助らが下野しました。翌年、江藤が佐賀の乱を起こし、 以後、不平士族の反乱が相次ぐが、大久保利通を中心とする政府はそれらを武力で鎮圧しました。しかし、西郷が帰郷後につくった 私学校の生徒たちは、西郷を擁して挙兵しようとしました。そして明治10年(1877)2月、私学校党を抑えきれずに西郷が立ち、 西南戦争が勃発。西郷軍は陸路で東京まで進軍しようとしたが、熊本鎮台の置かれた熊本城の守りが堅く、突破することができなかった のだった。田原坂の激戦にも敗れ、結果的に西郷軍は九州から出ることもできずに敗走。西郷は、わずかの兵とともに城山の洞窟 にこもり、9月24日、政府軍の総攻撃で銃弾を受け、別府晋介の介錯で自決。わが国最後の内乱となった西南戦争は終結し、動乱を 収東させた明治政府はようやく政権の安定を得ることができたのです。


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red 渋沢栄一 多種多様な企業の設立・経営に関わり、現在の一橋大学、東京経済大学の設立にも尽力 西暦1840年〜1931年 「日本資本主義の父」と称される

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めだか

★★昭和時代〜戦前★★

昭和年間(1926年 - 1989年)は昭和時代と呼ばれます。大正期から続いた不景気に世界恐慌が直撃し、社会 不安が増大しました。政党政治に代わって軍部が力を持ち、関東軍は独断で満州を占領して満州国を樹立し、 これがアメリカやイギリスの反発を招いて国際連盟を脱退しました。その後、第二次上海事変等により 中華民国との戦争状態(日中戦争・支那事変)に発展しました。日本はドイツ国、イタリア王国と三国同盟を 結び、真珠湾攻撃でアメリカ合衆国と開戦して第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)に突入しました。 開戦当初は優勢だった日本軍はアメリカ軍の物量と通商破壊に圧倒され、各地で敗北を重ねた。戦争末期には 主要都市を軒並み戦略爆撃で焼け野原にされ、広島と長崎には原子爆弾を投下されて敗れました。 ♠♠


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red 高橋是清 財政家として知られているため総理大臣としてよりも大蔵大臣としての評価の方が高い。 西暦1854年〜1936年 愛称は「ダルマさん」

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めだか

★★昭和時代〜戦後★★

戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領政策に基づいた象徴天皇制、国民主権、平和主義を定めた 日本国憲法を新たに制定しました。朝鮮戦争時には占領軍の指令に基づき掃海部隊や港湾労働者を朝鮮半島に 送り込むなど韓国支援活動を行います。昭和27年(1952年)にサンフランシスコ平和条約により主権を回復 した後、急速に戦後復興を進め、冷戦下の西側陣営として日米安全保障条約を締結しました。独立後の日本は 西側諸国の中でも特に米国寄りの立場をとったが、日本国憲法第九条を根拠に、軍事力の海外派遣を行い ませんでした。戦後の日本は、サンフランシスコ平和条約発効直前に発生した韓国による竹島軍事占領を除き 諸外国からの軍事的実力行使にさらされることなく、自民党と社会党の保革55年体制のもと、平和の中の繁栄を 謳歌しました。1972年には日中国交正常化と沖縄返還が行われ、戦後処理問題は一区切りがつきました。
日本のGNPは1966年にフランスを、1967年英国を、1968年にはドイツをそれぞれ追い抜き、米・ソ超大国に次ぐ 世界第3位に躍進、先進国の仲間入りを果たしました(高度経済成長)。オイルショック後の安定成長期には 重化学工業から自動車・電機へと産業の主役が移る産業構造の転換が進み、日本企業の輸出攻勢は貿易摩擦を もたらしました。昭和末期、日本はプラザ合意を発端とするバブル景気と呼ばれる好景気に沸きました。 ♠♠


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red 田中角栄 党人政治家でありながら官僚政治家の特長も併せ持った稀な存在だった。 西暦1918年〜1993年 「コンピュータ付きブルドーザー」と呼ばれていた

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めだか

★★平成時代〜令和時代★★

平成年間(1989年 - 2019年)は平成時代と呼ばれています。(平成(へいせい)は、日本の元号の一つです。) 昭和末期から続いたバブル景気が崩壊し、その後の長期にわたる不況は失われた10年と呼ばれ、経済面での 構造改革が進められました。
政治面でも冷戦終結と同時に変革を求める声が高まり、自社両党に よる55年体制が崩壊しました。非自民連立内閣が成立したが早々に瓦解します。また、社会不安が高まる中で 阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件、東日本大震災及び福島第一原子力発電所事故などの大規模な災害が発生、 危機管理に対する意識が高まるきっかけとなり今も、今後の日本の方向性探索の活動が活発になされています。 そして令和時代が始まりました。(2019年〜) 都度、更新しますので乞うご期待!! ♠♠


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red 本田宗一郎 日本の実業家、技術者。輸送用機器メーカー本田技研工業(通称:ホンダ)の創業者。 西暦1906年〜1991年 わが母校、静岡大学の同窓生

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