徳川慶喜

天下を取り候ほど、気骨の折れ候ことはこれ無く候





日本国のために幕府を葬るの任に当るべし


徳川慶喜1

尊王攘夷の嵐が吹き荒れる江戸時代末期。水戸の烈公徳川斉昭の七男として生まれ、英名を持って知られた ひとりの人物が、徳川第15代将軍に任命されます。徳川慶喜−−。[神君家康の再来」とまで言われた慶喜 は、14代将軍家茂の死後、崩壊寸前の幕府再興の切り札として登場しました。
しかし、倒幕のうねりは、もはやとどめようが無く、王政復興の大号令、鳥羽伏見の戦いでの敗北を経て、 徳川政権は瓦解します。260余年に及ぶ江戸幕府の歴史に幕を引いた慶喜は、その後、長い隠居生活に 入る事となります。
彼の仕事の一番は、大政奉還です。この大政奉還は、倒幕派に肩透かしを食らわせて、またこれを受けた 朝廷は、「政権を奉還した相手をいきなり討伐することはできない」との理由から、薩長両藩より出ていた 「慶喜を討伐する詔」凍結を命じます。大政奉還の目的は、倒幕派の牽制だけでなく、面食らった朝廷も、 なにしろ源頼朝が鎌倉幕府を開いて以来、約670年もの間、朝廷は政治に関与していない。実質的には 政権を担うことなど不可能だったのです。結局、従来どおり、徳川家に任せるしかないのです。慶喜の決断は 、それを見越してのものだったのです。
さらに慶喜は、大政奉還の上表を提出する前日に、西周を招いて、国家の三権分立やイギリスの議院制度を 理解し、その後、西が公表する「議題草案」として纏めているのです。そこには、政治や経済、軍事、司法 など全権が大君に委ねられる中央集権体制が想定されていたのです。まさに「大統領制」とも呼べそうな 構想なのです。
このように遠大な構想をバックにした慶喜は、こう考えていたようです。まずは一旦、朝廷に政権を返上 します。政権を持て余した朝廷は、結局、徳川家に委託せざるを得ないだろう。そこで新たな国家制度を 整備して自らが大君に就任する・・・。
だが、その後、状況は一変します。武力倒幕を目指す西郷隆盛らの主導により、「王政復古の大号令」が 出されてしまったのです。慶喜は、朝敵となってしまい、もはや新たな国家を成立させる術は残されてい なかったのです。鳥羽・伏見の戦いで敗北して、その後の戊辰戦争で旧幕府は、完全に壊滅します。
江戸から消え去った慶喜も、その後の人生において政治活動をする事は2度となかったのです。


『最後の将軍』の優雅なセカンドライフ


プレモカメラ

慶喜にとって、趣味は人生そのものであったと言っても過言ではありません。ざっと掲げるだけでも、写真に 狩猟、絵画、魚つり、自転車、囲碁、刺繍・・・と驚くばかりの多趣味ぶりです。なかでも慶喜が没頭したのが 写真撮影です。当時は、日本にカメラは入ってきたものの、写真を撮影する技術、現像する技術に関しては、 本を頼りに自分で研究するしかなかったのですが、慶喜は、3冊も研究ノートを残しています。
数々の彼の手による写真が今は貴重な資料として残っているのです。写真と並び、慶喜が愛した趣味が狩猟です。 当初は鷹狩りに熱中しましたが、ハヤブサを飼いならす訓練に根負けして鉄砲に切り替えて静岡の近郊の山々に 鳥やウサギ、猪を撃ちに行くようになり、腕前はプロ並だったようです。絵画や書道も達者で、東京の日本橋の 欄干に刻まれた「日本橋」という字は彼が書いたものです。
これまでに慶喜を趣味の世界へと駆り立てたものは何でしょうか?静岡の紺屋街に移転してからのことで、 天下人から一転、新政府には無用な人間として扱われ、晴れの舞台に出ることも無い、そんな孤独な隠居 生活での有り余るエネルギーを趣味に求めたとしても不思議ではないのです。もともと性格が好奇心旺盛で 凝り性であったことも間違いなく、真剣に打ち込む姿は、どこか恬淡とした世捨て人のようであります。


維新の敗者が新時代に贈ったもの


茶畑

お茶といえば、静岡の名産品としてよく知られています。駿河に茶の木が伝わったのは古く、13世紀頃、 聖一国司という高僧が現在の静岡市足久保に種をまいたのが静岡茶の始まりとされています。江戸時代になると 徳川家康が茶の湯の為に茶を静岡市の山間部、井川で作らせてが、時代が下り、明治に至って慶喜が静岡に 入ったことが、本格的な茶の産地となる転機となりました。慶喜が謹慎を命じられ、慶喜に従い、旧幕臣が 多く江戸から移住しました。その数は数千人。旧幕臣たちに生計を立てさせるために奨励されたのが茶の栽培 だったのです。
山岡鉄舟、関口隆吉らが先頭に立って、特に未開拓だった幕府領を開墾し牧の原茶園を造成。茶の大量生産が 実現しました。また静岡茶は、海外にも輸出されるようになります。1899年、清水港が開港されると、港は 日本一の茶の輸出港となり静岡の製茶業は益々発展していきました。
慶喜とともに駿府に下った旧幕臣は、このほかにも、さまざまな地域の発展に寄与します。
教育の面では、昌平坂学問所や開成所、横浜の仏語伝習所など幕府の教育機関に属していた学者達が、駿府に 移り、新たな徳川家の学校として駿府学問所(後の静岡学問所)をつくりました。ここでは、希望する者は 誰でも就学できるもので、当時の最先端の教育を実施していました。また沼津には、フランス式軍制教育を 行う沼津兵学校が開かれました。学長には、西周が就任し、日本の近代教育の発祥となったと言われています。
慶喜付の家臣である渋沢栄一は、ヨーロッパで学んだビジネスを実践。銀行と商社の機能をミックスした「 商法会所」(後の商工会議所)を静岡に設立し、地域経済の活性化に成功します。日本最初の銀行である 第一国立銀行を設立などして「日本実業界の父」と呼ばれる存在となりました。
慶喜が静岡に移り住んだのは30年ほど。この徳川ゆかりの地にそのまま移り住んだ旧幕臣も多かったが、 一般には生活が厳しく、ほとんどは帰農して農業に貢献しました。慶喜は「慶喜公」と呼ばれ、いまも 静岡の人々に親しまれています。


オーディナリー型自転車

1869(明治2)年、謹慎を解かれた慶喜は、駿府紺屋町の元代官屋敷に移り、32歳の若さで隠居生活に 入ります。もう少し、彼の行動を深掘りしてみましょう。

★現代娯楽の先駆け、新しもの好きのライフスタイル・・・好奇心旺盛だった慶喜は、 ヨーロッパの文物に強い興味を抱き、洋画や写真を楽しみました。さらには、サイクリングにも熱中して 前輪が大きく乗りこなすのが難しい、輸入物のオーディナリー型自転車を乗りこなす姿が目撃されたようです。
好奇心の赴くままに次次と新しい楽しみを求めた慶喜のライフスタイルは、現代のリクリエーションの先駆け となるものでした。パンとミルクを好み、食後のコーヒーなど真っ先に取り入れていました。

★幕末から進められていた近代国家への改革・・・日本の近代化は、明治維新から始まった とされます。士農工商という身分制度に象徴される徳川幕府の封建制度が崩壊し、維新を境にして、前近代 から近代に移行したという考えです。しかし歴史とは、そのように断絶したものではないのです。1853年の 黒船の来航から1868年の無血開城に至る激動の15年間には、幕末の社会全体において近代化への道程が推し 進められていました。それがあったからこそ、明治に入ってからの急速な近代化路線もスムーズに軌道に 乗ったとみるべきです。
慶喜もまた、将軍後見人職時代から幕政改革の必要性を感じていました。西洋軍制の導入、洋書調書所の設置 、参勤交代制の緩和、公武合体の推進、京都守護職の設置など慶喜が実施した政策は、従来の徳川幕府の あり方を根幹から変えるものだったのです。幕府崩壊後、新たに成立した明治政府は、こうした幕府の遺した 産業や施設を生かしながら、近代国家への道を邁進していく事となったのです。

★沈黙がもたらした統一国家・日本の安定・・・隠居後の慶喜は、勝海舟や渋沢栄一など 一部の人を例外として、旧幕臣が訪ねて来てもほとんど会おうとしませんでした。反政府のシンボルに祭り 上げられるようなことは、一切かかわりを持たないようにしたのです。それは、内乱の可能性を慎重に回避する 事で、明治政府の安定に陰から貢献したのです。
さらに、慶喜は自身の言動すら。下手をすれば社会を混乱させかねないとして、政府、社会問題に対する批評や 幕末維新期のコメントも全く残しませんでした。1898(明治31)年、慶喜は、かっての徳川幕府の居城であった 皇居に入り、明治天皇に謁見します。謁見がすむと天皇は、皇后と共に厚く慶喜をもてなしたといいます。 慶喜が朝敵の汚名を着て以来30年を経て、朝廷と徳川の和解が成立したのです。
新政府に道を譲り、無為の余生に甘んじて近代国家日本の統一と安定を願った徳川幕府最後の将軍。敗軍の 将として見事に身を処した慶喜が新時代に残した功績は、隠れてはいるが偉大なものであったのです。











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