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大正から昭和にかけて日本の財界を背負って立ち、大蔵大臣に7度にわたって就任した高橋是清は、度重なる
金融恐慌を巧みな舵取り解決し、「日本のケインズ」と呼ばれた。その風貌と不屈の精神から「ダルマ」と
あだ名され、誰からも敬愛された人格者の、七転び八起きの生涯を少し辿ります。
彼が生きた時代は、事件が多くあった。日露戦争、世界恐慌、辛亥革命、第一次世界大戦、関東大震災、
5.15事件、そして彼が命を落とす2.26事件など世界のみならず日本にとっても激動に時代なのだ。
特に1927年の渡辺銀行破綻発言に端を発した金融恐慌とニューヨークの株式市場暴落した世界恐慌では、
時の内閣は、いづれも高橋是清を蔵相に指名。金融恐慌では、銀行を3日間休業させて、その間に「見せ金」
として200円札(何と裏は「白紙」だった)を大量に印刷して各銀行に配布して営業を再開。業務はうまく
進行し騒動を沈静化させた。また銀行の業務を立て直す議案を提出して可決するという早業を行ったのである。
また世界恐慌の時は、金の輸出を再度、禁止して銀行券と金の兌換を停止。日本は世界的不況からいち早く
脱出できたのである。
しかし世界的不況は市民生活を苦しめる。5.15事件が勃発、内閣総理大臣の
犬養毅が暗殺された。高橋是清は、臨時に総理大臣を兼任して犬養内閣を解散。次の政権へと移行させた
のである。ここから政府と軍との予算振り分け抗争が始まってしまい、軍と対立。1936年(昭和11年)
2月26日自宅で陸軍将校らの襲撃を受けて死去することとなる。
彼は、いつまでも国民の味方であったそうだ。
昭和10年の年末に行われた次期予算会議で軍部が多額の予算を要求。彼らは、「三井や三菱のような
金持ちの金を取り上げれば、陸軍の予算などすぐに賄えるのではないか?」との詰め寄りに、是清は
「そんなことをすれば、軍は国民の恨みの的になるだろう。」と突っぱねて断固反対の姿勢を見せたという。
「軍拡には断固反対」命を懸けて軍部と対決した財政のプロは、どこまでも国民目線だったのである。
★ケインズ理論と高橋財政
高橋是清の財政政策は、赤字公債を発行し政府が日銀からお金を借り、それを元手に必需品を購入したり
公共事業を行い、経済を刺激。労働力の需要を発生させて農民や失業対策とするやり方である。そして
経済が安定化したした頃、日銀が公債という形で通貨を回収する政策だった。この高橋財政の方針は、
当時の緊縮財政とは正反対であり、国内生産力の促進によって資金を蓄積するとうものだった。
これが、あとにイギリスの経済学者ケインズが提唱する理論を先取りしていると言われたことから
是清は「日本のケインズ」と呼ばれている。正にケインズ理論の第一の実践者であるといえる。
高橋是清の言葉に、参考になる名言があります。「1+1が2になると考えているような秀才には、しょせん
財政はわからない」。つまり、税収が足りないから増税すればいいと言って、消費税を引き上げたような
財務官僚には、経済のことはわからないと言っているのです。
大蔵大臣を7度も務めて日本経済の舵を取り続けた是清だが、その功績は財政面だけにとどまらない。
教育や特許制度なの確立など、さまざまな方面での活躍は、現在に至るまで日本に影響を与え続けている。
(右の紙幣画像は、高橋是清の写真入りの50円札)
★教え子たちの活躍
英語の専門家であった是清は、大学南校や唐津藩の英語学校の教師を経て、1878年(明治11年)、現在の
開成学園の前身である共立学校の初代校長に就任。その時、是清は「学問は思考力を用いるのが最も
貴い」と語って教員や生徒を諭している。この言葉は、現在でも開成学園の教育理念として残っており、
全国屈指の進学校としての基盤を支えている。
★特許法の確立
現在、特許庁では、特許、実用新案、意匠、商標の審査及び審理を行っているが、一連の「知的財産」と
いう考え方、そしてそれを守る近代産業国家に必須の概念を確立し、日本に導入したのが是清である。
次いで発明専売規則、いわゆる特許についての制度作成に取り組み、明治20年、特許、意匠、商標の
3条例を起案して、同時にこれらの事務を迅速に行うために専売特許局を農商務省から独立させて
今日に続く特許庁の基礎が完成したのであった。
★「元気でやれば何でもできる」
歴史に名を残す辣腕財政家だったが、人情家でもあり、子供好きであった。口癖だったといわれる
「元気でやれば何でも出来る」という言葉は、将来の子供たちに残した心温まる言葉であり。現在でも
千代田区の麹町小学校に保管されている。
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