渋沢栄一



私利と公益というものとは、決して別なものではない。

道理正しいか、時運に適しているか、
人の和を得ているか、おのが分にふさわしいか。


渋沢栄一

日本史上最大の変革期であった幕末から明治に至る、混乱と開化の時代。この激しい政治の季節の中で生を 受けた、ひとりの偉大な経済人がいた。
渋沢栄一
攘夷に燃える志士から一転、最後の将軍・慶喜に仕え、図らずも幕臣となった後、派遣されたフランスで 近代資本主義の洗礼を受ける。帰国後、新政府に迎えられて出仕するが、官を辞して本邦初の銀行を開業、 更には日本経済を支えることになる大企業の数々の設立にかかわった。数多くの事業を世に送った在野の 指導者の目指したものとは・・・・・。

★時代に翻弄される若き日
彼は、1940年(天保11年)今の埼玉県深谷市で生まれた。幼少より父やいとこから論語などの書物を学び 勉強するには、良い環境ではあったが、尊王・攘夷運動の高まりから攘夷論者となって江戸に出た。 いとこの尾高惇忠らと高崎城の乗っ取りや横浜焼き討ちの攘夷運動を計画するが、長女の誕生などの 生活環境の変化から京都、一橋家に出仕する事となった。これが若き渋沢栄一の転機となったのである。

★フランスで目覚めた資本主義
第一国立銀行
徳川昭武のフランス留学に同行して、そこで真の資本主義に出会う。パリには多くの銀行や会社があり 、大衆の資金を集めて大規模な営利事業を行っている。利益を出資者に還元することで大衆を富ませ、 国全体を富ませていく仕組みに衝撃を受けたのである。また、フランスには士農工商という身分制度もなく、 日本のような官尊民卑の風潮がないことも栄一を驚かせた。誰でもお互いに自己主張をして議論もする。 これが文明社会の姿かと、目を見開かせる思いだった。この体験は帰国後に栄一が「合本法」の会社を 興し、実業家の地位向上に力を尽くす事となる原点となったのである。

★新国家づくりに力量発揮
慶喜が、大政奉還したので徳川昭武が水戸徳川家を相続することとなり帰国の途に就くが、慶喜の 彼を思う気持ちから水戸行を断念して静岡に留まり、ここで初めての会社を設立することとなる。 藩の許可を受けて駿府城近くに商法会所を作った。これは銀行と商社の中間のようなもので、農家への 資金の貸し出しや肥料の買い入れ、売却を行う、合本主義の最初の実践となる会社であった。その働き が目に留まり、東京の新政府から呼び出しを受ける。そこで民部省の実権を握っている大隈重信より 強く勧誘を受けて新日本の建設に一肌脱ぐこととなった。彼は、租税正として働き始め、煩雑な省務の 整理と改革を進める。そして度量衡の改正に着手。新たな貨幣制度について調査を行い、その結果 「円」を単位とする新貨条例を制定、公布されたのである。

★日本経済をプロデュース
栄一は第一国立銀行を拠点として、株式組織の会社設立と育成に力を注ぎ、生涯関係した会社の数は、 500にも及ぶと言われている。長く関係を保った会社は、第一国立銀行のほかに王子製紙や東京海上 保険など大蔵省退官後にいくつかあるのみで、ほとんどは会社設立後、経営が軌道に乗り始めると手を引き 、また新しい会社に力を注ぐといった具合であった。このため、日本経済のプロデューサーとも言われている。 東京電力、大日本麦酒、神戸鉄道、日本化学、日本郵船、東京株式取引所など日本経済の要となった企業に 深く関わった。

★社会事業にささげた晩年
1918年(大正7年)『徳川慶喜公伝』が刊行された。そこには、栄一の恩主に対する尊敬の念が込められていた。 慶喜が大勢を見極めて潔く身を引いたことで維新も成功した事、この慶喜の役割が知られていないことが 栄一に伝記を著す一番の理由だった。慶喜自身の協力もあった他に例を見ない伝記として完成した。 関東大震災発生後は、自らも被災しながらも息子たちの治安が安定するまで田舎に疎開するよう勧められたが 「田舎に行けなど卑怯千万。これしきの事を恐れて80年も生きれてこられたと思うのか。余りといえば意気地がない。 そんなことでは、ものの役にはたちはせぬ。」と一喝。大震災善後会副会長として市中に出かけていった。 またこの大震災に海外から援助の支援が届き、アメリカや欧州の経済界より多額の義援金が届くのも渋沢栄一 の実績による所が大きかった。晩年には、20万人に及ぶ寒さや飢えに苦しむ窮民の救済法の制定に尽力し 、栄一の死後、実施されることになる。息子の秀雄は「資本主義を罪悪視するわれなれど、君が代は尊く おもほゆ」と歌い、主義主張を超えて多くの人に惜しまれたのだった。



国際通信社、田園調布、・・・公益の理念が生んだもの


田園調布の街並み

自らの利益よりも、社会への貢献を実業の世界で考え続けた栄一が、現代に残したものはあまりにも大きい。 経済に関わるもの以外にも多い彼の功績の、あまり知られない面にスポットを当てて紹介する。

★国際通信社の創設
民間外交の先駆者といわれる栄一は、特にアメリカとの交流を重視した。彼は、アメリカを訪問した時に新聞や 雑誌で報道される日本や日本人に関する情報が非常に少なく、正しいものではないと感じていた。そこで日本にも アメリカのAP通信やイギリスのロイター通信のような国際的にニュースを発信する通信社を作り日本人の手により 正確な情報を世界へ伝えるべきだと考えるようになった。1914年(大正3年)春、日本初の国際ニュース配信社で ある「国際通信社」を設立した。国際通信社は、その後、共同通信社、時事通信社の源流となったのである。

★田園調布の開発
欧米のように職住分離を行い、環境の良い郊外に住宅を設けて都市生活を改善したいという理念から社会事業として の一面もあって自分の街を残すという夢から田園調布都市計画を策定した。多摩川べりの畑の中に、商店街を取り込んだ 放射プランの見事な町割りを持ち、豊かな並木道や生け垣を備えた、田園調布の街並みが実現したのである。

★商業教育への尽力
東京の商法講習所の経営に関わり、東京府への移管に伴い廃校の決議が行われたが、栄一は、存続のために奔走。 1884年(明治17年)には農商務省管轄の東京商業学校となった。帝国大学が設立する時に商科が置かれなかった事を 不満に思い、大学昇格への運動を展開し、ついに東京商科大学となったのである。これが今の一橋大学である。 その他にも東京女学館、日本女子大学、東京経済大学などの設立にも尽力したのである。人材の育成と日本経済の 発展への貢献こそ、彼が残した最大の遺産である。











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