田中角栄

数は力、力は金



はじめに結論を言え、理由は3つに限定しろ。


田中角栄

第一次世界大戦で、空前の好景気を謳歌した大正時代中期の日本。しかし昭和を迎えるころには、大恐慌の 嵐が世界中に吹き荒れ、人々は、高まる軍靴の音に脅えるようになっていった。そんな激動の時代、新潟の 寒村に生を受けながら、日本を豊かにするため邁進し、ついには政治の頂点に上り詰めた男がいた。
田中角栄
わずか19歳で建設関係の事業をたあち上げ、29歳で政治の世界に転身。金と数の力を信じ、たちまちのうちに 権力の座を手中に収めた政治の天才。しかし、その栄光は、永遠に続くことはなかった・・・。

★貧しさからの脱出
角栄は2歳の時に、ジフテリアに罹ったことがあった。祖母のコメがのちに語ったところによると、角栄は生死の 境をさ迷うほど重い症状に襲われ、それが原因でどもるようになったという。ところが、ある日、角栄少年に 思わぬ転機が訪れる。旅回りの芸人が唸る浪花節を、聞いているうちにすっかり覚えてしまったのだ。試しに こぶしを利かせて唸ってみたところ、不思議と吃音が消えて、その上手さから一躍人気者になったのである。 16歳で上京した角栄は、働きながら、東京・神田の中央工学校夜間部で学び、無事卒業。その後、設計事務所に 就職する。その頃出会った理研産業団という新興財閥の総師、大河内正敏である。大河内は、角栄が立ち上げた 会社に理研の仕事を紹介することを手始めとして長年にわたり巨大な後ろ盾として角栄を支えていくこととなる。 1943年(昭和18年)、角栄は、東京・飯田橋に「田中土建工業株式会社」を立ち上げ、社員100名を超える会社の 取締役社長に就任。年間施工実績で全国50社に入る会社へと成長する。大河内理研産業団との結びつきも一層 強くなり、終戦の混乱期に巨額の富を手に入れる事となった。こうして角栄は、青年政治家となるための基盤を 整えていったのである。

★型破りの青年政治家誕生
昭和22年、衆院選で新潟県第3区より出馬し当選。29歳の若さである。昭和30年、鳩山一郎率いる日本民主党と 吉田茂の自由党と合併して自由民主党が誕生した。角栄は、主流から外れ、巨大与党のなかで苦しいスタートを 強いられることになる。

★執念でつかんだ総理の椅子
角栄が政治家として成功した要因には、人並み外れた実行力、それを支えた資金力はもちろんのこと、それ以外にも 「人を見る目」があった。角栄は、独特の観察眼によって「人の価値」を見極め、価値があると認めた人間には 積極的に恩を売っていった。ある時は、ワンマン宰相・吉田茂が官僚から政界に引き抜いた佐藤栄作の郵政大臣 就任を後押しし、またある時は、池田勇人の大蔵大臣就任に尽力。これにより角栄は、1957年(昭和32年)に、 総務会長であった佐藤栄作のサポートで、岸内閣における郵政大臣のポストを史上最年少で獲得したのをはじめ 自民党政調会長、大蔵大臣、幹事長を任された。1972年(昭和47年)、既に政界から引退を表明していた佐藤栄作 首相の後任をめぐって、自民党内では、壮絶な闘いが繰り広げられた。世にいう「角福戦争」である。 佐藤栄作は、派閥一の実力者である角栄ではなく、実兄である岸信介の後継者・福田赳夫を次期総裁に選んだ。 これに反発した角栄は、佐藤派から独立して田中派を結成。二階堂進、小渕恵三、橋本龍太郎、小沢一郎など 佐藤派の三分の二に近い議員を集めて宣戦布告したのである。この総裁選には、三木、大平も立候補していて 「三角大福」の大戦争となったが、角栄は中曽根に協力を直談判の末、協力を取り付けることに成功。自民党 総裁選では、角栄が156票、福田が150票でわずかの差で角栄が勝利。第一次田中内閣が誕生することとなった。

★キングメーカーの転落
アメリカでウォーターゲート事件が発覚してニクソン大統領が辞任したころ、日本でも文芸春秋に記載された 立花隆氏の「田中角栄研究-その金脈と人脈」で角栄の資産、経歴、政治資金、関連企業に関するさまざまな 疑惑について言及された。そしてアメリカ上院多国籍企業小委員会でロッキード社の対日売り込み資金工作が 問題化する。受託収賄罪、外為法違反の疑いで秘書の榎本敏夫らとともに逮捕された。第一線から退いたものの 「闇将軍」「キングメーカー」として大平内閣、中曽根内閣、竹下内閣と陰ながら支援して政治界のキャスティング ボートを握っていた。

★ワンマン政治家の寂しい幕引き
ロッキード事件は、角栄を失脚させるためのアメリカの陰謀だとする説が存在する。オイルショックに懲りた 、時の首相・角栄が、従来の石油資本に頼らない独自の輸入ルートを開拓し、同時に原子力発電を推進しよう としたために、アメリカ巨大石油資本が、政府に働きかけ、角栄を政治の表舞台から葬ったというのだ。 まず、事件の発端となったアメリカ上院多国籍証言した、ロッキード社のコーチャン副会長とクラッター氏が アメリカで起訴されていない点。ロッキード社の機密書類であるはずの証拠書類がいとも簡単に委員会に手渡された 点。そしてキッシンジャー氏の「ロッキード事件は間違いだった」発言など何やら怪しい雰囲気を漂わせている。 日本では、田中派の竹下登が創政会、経世会を発足させて田中軍団が崩壊。1990年(平成2年)衆議院の解散に より政界を引退して各地の越山会も解散することとなった。長女、真紀子が、角栄の選挙区だった新潟3区から 出馬し初当選。御礼行脚のために新潟へ最後の帰省を果たすが、1993年12月、甲状腺機能障害にて死去、享年 76歳であった。



列島改造、バブル・・・角栄が遺した光と影


日本列島改造論

バブル経済とその崩壊は、角栄の政策に端を発し、角栄以降にその政策を引き継いだ後進らによって引き起こされた 現象である。つまり、『日本列島改造論』は、バブル経済を産んだ遠因の一つであると言われている。角栄にとっての 列島改造論とは、高速道路網と新幹線を日本全国に張り巡らせることで、地方の過疎化と都市の過密化を解消し、 地域経済格差を無くして国民生活を豊かにすることであった。だが、企業や個人投資家が、こぞって土地の投機に 走ったために、高速道路の予定地や新幹線が通る候補地はもちろん、その周辺にも地価の高騰がもたらされた。 それは、土地は必ず値上がりするという土地神話を生み出し、この神話を基に日本経済は、バブル経済に突入する こととなった。その後、バブルが弾けて長い不況期を経て、日本経済は根本的な改革を求められる状況に突入した のである。もう一つ、『日本列島改造論』が遺したものは、地域・地元への利益誘導である。地域の道路を整備して 橋を架けるなど公共事業を拡大、地域経済の活性化に努めたことである。のちに竹下登が行った「ふるさと創生資金」 による「全市町村一律1億円配布」の実施も今思えば、大胆な施策である。「ふるさと」が正しく創生されたかは いささか疑問ではある。

★政・官・財界の癒着構造
金権政治に関しては、角栄は大きく2つの事柄から批判されている。ひとつは、官僚の腐敗を招いたことであり、 もうひとつは、官僚と所属省庁に関係の深い業界とを金銭的に結びつけるような政策を実行したことである。 角栄が望むと望まざるに関わらず、角栄以降の政治家にとって、その政治手法は受け継がれた。政治家は官僚を、 官僚は、政治家を利用して益々癒着。さらにそこから生まれる利権に群がる財界をも巻き込んで政・官・財の もたれあいの構図は強固なものとなった。金で業界団体を動かすやり方は、以降の自民党政治に引き継がれて いった。政治家は、政治基盤を強化するために、公共投資の名のもとに国民から集めた血税を特定の業界に 有利に配分するよう、官僚に働きかけた。さらに税金を介した財界との結びつきによって、天下りという弊害も 生みだされた。約3分の1に整理された特殊法人だが、役員のおよそ7割は、元官僚で占められているという。 金権政治がもたらした政・官・財界の金銭感覚のマヒを象徴するような出来事は今でも後を絶たない。

★日中関係の行方 日中国交正常化
田中角栄が、対日戦争賠償金の請求権放棄をさせた「日中国交回復」を成し遂げてから、40年以上が経過した。 日中国交回復にあたり、角栄が目指したものは、10億人の市場を開拓することであったというから、この点から すると、角栄の目論見通りになったといえよう。日本企業の中国進出、生産拠点自体の移設も増加して、安い? 労働力による生産が日本企業に利益をもたらすと考えられた。しかし、それは日本の労働者の雇用に悪影響となり また、人件費高騰で返って経費がかさむ結果となっている。さらに日本の企業が持っている技術やノウハウが 中国に流失している現実もある。中国国内での反日感情の根強く、角栄の業績が、真の評価を受けるのはまだ先と なりそうだ。

★科学技術への貢献
現在、日本では生命科学の研究開発機関として独立行政法人・理化学研究所が最先端の研究を行い、ゲノムや タンパク質の解析で世界的にも高い評価を得ている。角栄は、この研究機関の前身である戦前の財団法人・理化学 研究所(理研産業団)の時代に、この研究所や関連企業の建設の仕事を請け負うなど深い関わりをもっていた。 衆議院議員となった角栄は、日本の科学技術推進のために、この理化学研究所の再建に奔走。そして1958年(昭和 33年)議員立法により、強引だとの批判にさらされながらも『科学研究所法』を成立させ、特殊法人・理化学研究所 が新たに設立された。その後、理化学研究所では、数々の先端技術の研究がなされ、ヒトのゲノム関連をはじめ 、脳科学、ナノサイエンス、再生医療、バイオテクノロジー、遺伝子関連等に多大な成果を商品化して社会に 送り出している。この先の高齢化社会に役立つ技術を作り出しているのである。
理化学研究所
その圧倒的なバイタリティーと 行動力で一時代を築いた政治家・田中角栄。功罪相半ばするものの、その影響力は政界・官界に留まらず、 財界や科学技術に至るまで、日本全体に及んでいるのである。











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