趣味 あ・ら・か・る・と (My Wikipedia)
織田信長が13歳、徳川家康が5歳の時、ふたりは出会ったといわれています。松平竹千代こと後の家康は、人質
として今川家に送られる途中、織田勢によって拉致され、尾張に幽閉されました。当時、仲間を引き連れては
尾張の国中を駆け巡る悪ガキだった信長は、この時、織田家が拉致した人質に興味を示し、会いに行ったようです。
両者の境遇は、大きな違いがあるも、「水泳が得意な信長が、家康に泳ぎを教えた」という説も残っています。
信長は何度も家康の所に通い、本当の兄弟のように遊んだかもしれません。
愛情不足がうつけの原因であり、エキセントリックな少年時代を過ごす信長には、家康は可愛い弟の存在であった
はずです。家康が織田家で過ごしたのは2年余り。自由奔放な信長と、松平家の為に人質として耐える家康。対照的
な境遇の二人はいったいどのような会話を交わしたのだろう。一説では、二人は「ともに戦って天下を西は信長、
東は家康で分けよう」と誓い合ったと言われています。その後、戦いで今川方に捕らえられた信長の兄との人質
交換によって家康は織田家を去り、今川家に送られます。
後年、信長は意外にも、各地から送られてきた子供の人質達に優しく接したといいます。それは幼い頃の家康との
関係が少なからず影響していたと考えられます。幼い信長は、孤独で、多感な子供時代にもかかわらず、親からの
愛情や兄弟愛を知らぬまま育ったので、家康の境遇にも理解を示していました。そして自分の弟のような家康に
親近感を感じて接していたと思います。
もう一人、信長が最も寵愛した小姓として、広く知られるのが森蘭丸です。13歳で信長の小姓となった蘭丸は、
兎に角機知に富んだ少年で、徹底的に主である信長を立てたため、信長のお気に入りとなりました。
ある時、僧が信長に大量のミカンを献上。蘭丸が台に載せて披露することになったが、「そちの力では危ない。
倒れるぞ」と信長が言った途端、蘭丸は台もろともひっくり返りました。「そら見ろ、ワシの言ったとおりでは
ないか」と信長。後日、ある人物にその話を持ち出された蘭丸は、「あれを無事に運んでしまっては、上様の
目利き違いになってしまうので、わざと転んだんだ」と答えたといいます。すべてがこんな調子だったので、
信長は蘭丸を可愛がり重用しました。信長の威光を背景に蘭丸も尊大な態度を取る様になり、家臣の中には蘭丸に
恐れを抱く者まで現れたといいます。
信長に愛され、その一字を授かり「長定」という名前もあった欄丸。本能寺の変の2年前には、すでに光秀の異変に
気づいていたといわれます。しかし、その蘭丸の忠告を信長は笑い飛ばしたといわれています。本能寺での蘭丸は、
信長を守って最後まで戦い、同じく小姓を務めていた坊丸、力丸という二人の弟と共に殉死したのです。
桶狭間の戦いで、わずか3千の兵で5万の今川義元を打ち破り尾張の織田信長は只者ではないと世に知らしめ
ましたが、信長が初陣を飾ってからの織田軍の合戦戦績は、150戦して90勝の勝率6割。これは、戦国最強と
いわれた武田信玄が目標としていた数字と同じであり、上々の勝率であったといわれます。さらに、信長が陣頭指揮
した場合の勝率は、114戦して74勝で、勝率6割5分と高くなるようです。彼が現場にいることが、軍全体の
能力をアップさせました。そんな信長も、軍神・毘沙門天の化身と恐れられていた上杉謙信とは、たった一度しか
対決していません。その戦いは1577年(天正5年)9月、加賀の手取川で行われました。勢力拡大を目指す
謙信の思惑を潰すべく、信長は柴田勝家を大将とする約2万の軍勢を加賀へと派兵。信長は3万の軍勢を率いていた
ものの、結局、現場には行かず、結果も謙信の策略にはまり大惨敗。「信長も意外に大したことはない」という
謙信の発言を、信長はどんな思いでかみしめたのだろうか。
彼にも二大天敵がいて、武田信玄と上杉謙信
であることは間違いないようです。
ルイス・フロイスは、信長に海外への憧れを抱かせ、世界との架け橋となったリスボン生まれのイエズス会の宣教師
です。1563(永禄6)年、日本に布教にやってきた彼は、信長はじめ数多くの時の権力者たちと会い、滞在記録
「日本史」を著しました。この著作はローマ字で書かれており、当時の地名や人名の正しい読み方を今日に伝える
ばかりでなく、信長をはじめ当時の権力者たちの様子を克明に知ることが出来る貴重な資料となっています。特に
信長に関する記事が多く、「信長公記」とともに信長研究には欠かせないものです。
フロイスが信長にはじめて謁見を申し込んだのは、信長が足利義昭を擁して上洛を果たしてからほどない頃でした。
以前、京都の実権を握っていた松永久秀に追放されていたフロイスは、新しい権力者である信長に保護を求めます。
フロイスが献上品として差し出した品々から、進んだ西洋文化に興味を持った信長は、後日、二条城の建設現現場に
フロイスを呼び、はじめて対面。フロイスのキリスト教に関する暑い思いを聞くうちに、宣教師達の信仰心は仏僧
と比べものにならないと感心し、布教の許可を与えました。
壮大な航海をを経て、日本にやってきたフロイスたちの男気に、信長は尊敬の念を抱き、彼らの世界旅行の話に
夢中になります。しかし、信長亡き後、フロイスは表舞台から姿を消します。秀吉の発した「バテレン追放令」
から逃れるように潜伏し、その晩年をひたすら「日本史」の執筆に費やし、長崎の修道院でひっそりと65年の
生涯を閉じたのです。
信長の好奇心が育てたもの残した偉業は、現在にもしっかり残っているのです。
彼が支配した安土桃山時代は、日本のルネッサンスとも言われる時期です。新しい物好きだった戦国の覇者は、
気に入ったものを手厚く保護し、さまざまな分野にわたり、その後の時代へ受け継がれる事となる文化や習慣
を生み出したのです。
★道楽から生まれた近代相撲の原型・・・そもそも相撲は、「古事記」によると、健御名方神と
健御雷神が出雲の国を賭けて行った力比べが発祥といわれるほど古い歴史をもっています。
尾張の一大名に過ぎなかった信長は、家臣に交じって自らも相撲を取るなど、武術としての相撲に親しんでいました。
信長が開催した上覧相撲の中でも、特に有名なのは、1570(元亀元)年3月3日に安土の常楽寺で開催した
相撲興行でしょう。近江中の力士たちが、この大会の噂を聞きつけ、安土に集結しました。信長は、勝ち残った
鯰江又一郎と青地与右衛門の2名に刀と脇差を与えて相撲奉行として家臣に召抱えます。このように、信長は、
優秀な相撲取りに対して、身分に関わらず褒美を与えたり、家臣に取り立てたりしました。ちなみに、いまでも
全取り組みのあとに行われる「弓取り式」は、上覧相撲で勝者となった宮居眼右衛門に信長が弓を与えたのが始まり
だそうです。この頃から、力士が「シコ名」を持つようになり、行司も登場しました。信長の道楽だった相撲大会が、
近代相撲の原型を作り上げたのです。
★甘党の信長が変えた日本の菓子文化・・・1569(永禄12)年4月、二条城に信長を
訪ねた宣教師ルイス・フロイスは、南蛮の珍品を取り揃え、信長に献上しました。とりわけ珍しい物好みの信長の
目を引いたのは、ガラスに入った星型のお菓子でした。ポルトガル語で砂糖菓子を意味する「CONFEITO(コン
フェイト)」から、金平糖と呼ばれるようになったこの菓子は、甘味が貴重だったこの時代、宣教師たちが、
異国の権力者に取り入ったり、キリスト教を広めるための手段に用いられ上戸には、ぶどう酒が、下戸には
金平糖やカステラ、ボーロ、タルトといった南蛮菓子が献上されました。この時代、喫茶の習慣が普及し、
お茶請けとしての菓子への関心も高まりました。それまでは、饅頭、羊羹など和菓子や唐菓子が一般的でしたが
甘党だった信長の影響により、金平糖なども茶の席に登場するようになりました。
★信長が心酔し後の世に続いた名窯・・・信長が美濃を平定した時に家臣となった男に、
古田織部という茶の道に長けた武将がいました。織部は陶工でもあり彼の作品は、信長に影響された結果、
既成概念を打破し、新たな価値観をもたらした「織部焼き」となって今に受け継がれています。織部焼きの
特徴とされる「ゆがみ」「ひずみ」「アンバランス」といった自由奔放で奇抜なデザインは、それまでの
陶磁器の美の概念を一変させてしまいました。
茶の湯を愛し、陶器にも造詣が深かった信長は、1563(永禄6)年12月に領土である尾州の瀬戸村の
窯業を手厚く保護するために「瀬戸物」関係者の自由と安全を保障するように命令を発しました。瀬戸以外
では、好き勝手に窯を起こすことを禁じた禁窯令を発したのです。信長の陶器への思い入れは格別だった
証です。
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