平清盛

波乱万丈の生涯

平清盛

平氏にあらずんば、人にあらず



12世紀も半ばを迎えた平安時代末期、300年以上も続いた貴族を頂点とした雅な社会は、次第に力を つけてきた武士の台頭によって変化の兆しを見せ始めていた。そんな時代に、貴族に仕える名門の武士の子 として生まれ、異例の栄達を果たそうとする男がいた。
平清盛。武力ではなく、妹や娘を天皇家に嫁がせ、婚姻関係を結ぶという政治的な手腕に よって、貴族政権を我が物とし、一門に栄華をもたらした平氏の棟梁。しかし、繁栄は長く続かず、一族は 悲劇的な滅亡へと転落していく・・・。

後継者である息子、重盛の急死は、彼の行動に異変をもたらした。既に絶頂期を過ぎて貴族化し武門としての 誇りを失いつつある一門の者たちを統制するのが困難な状況であった。この状態は清盛亡き後の大きなウイーク ポイントとなった。
打倒平氏の動きが顕在化したのは、1180年である。 後白河法皇の息子である以仁王が源頼政と謀って平氏追討を計画したのである。同年8月、源頼朝が伊豆で挙兵。 東国の源氏ゆかりの武将達は頼朝を総大将に結束していったのである。
平氏と源氏の興亡を描きながら人の栄華とはかなさ、哀れみを描いた平家物語は日本を代表する古典文学である。

「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす おごれる者も久しからず  ただ春の夜の夢のごとし」
「平氏にあらずんば人にあらず」


・・・といわれるほどの繁栄を見極めた平氏が、源氏武士団の台頭により衰退へと向かう。ついには都を追われ、 壇ノ浦で悲惨な最期を迎える。
富士川の合戦
しかし、平清盛の残した偉業は、現在にもしっかり残っているのである。

★日本初の港湾都市が誕生・・・大輪田泊(、今の神戸)に経ヶ島(人口干拓地)を造り出し大型船(宋船) の入港を可能とし日宋貿易を推し進め巨額の富を得た。
宋との貿易は、日本の学問の進歩にも貢献し貴族が世界を見聞きする機会を作ったのである。(大百科事典、太平御覧の作成)
★荘園支配の貴族に対抗し市場経済を産んだ銭の流通・・・日宋貿易で得た宋銭で今までの物々交換からお金で 物を買うという感覚を一般化した。そして女性の社会進出を後押して清少納言の枕草子や紫式部の源氏物語、 武勇で名をはせた巴御前などこの時代の特徴である。
★独創的発想が生んだ世界遺産の厳島神社を建造・・・海上に立地し、背景に自然と一体になった景観は他に 比類なき独創性がある。宋との貿易において瀬戸内の航路整備と安全確保は欠かせず、瀬戸内を守るシンボルが 厳島神社であった。











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