本田宗一郎

世界一でなければ日本一じゃない。



タダの時間をいかに有効に使うか、そこに成功の秘訣がある。


本田宗一郎

太平洋戦争での敗北で日本は焦土と化し、国民が敗北感に打ちのめされた日々を送る中、浜松の小さな町工場で 日夜、機械いじりに明け暮れる技術者がいた。
本田宗一郎
天才的なアイデアと技術でオートバイを作り始め、町工場は日本一のバイクメーカーに急成長。やがて、幼い頃 から憧れてた自動車業界へも参入し、低公害エンジンの開発で世界中から喝采を受ける。だが、日進月歩で進む 自動車技術についに彼の才能も追い越される。そして若手技術者たちの成長を見届けると、潔く道を譲った・・・。 一介の自動車修理工から世界的な自動車・バイクメーカーを一代で築き上げたその姿は、奇跡の復興を果たした 日本の姿とも重なって見える。型破りの快男児が不可能を可能にしてきた、サクセスストーリーを振り返る。

★鉄とガソリンの匂い
本田宗一郎は、1906年(明治39年)11月17日、静岡県磐田郡光明村に鍛冶屋を営む父、儀平と母、みかの長男として 生まれた。ふいごと槌の音が鳴り響く家で育った宗一郎は、くず鉄をおもちゃ代わりとし、いろんなものを作って 遊んでいた。鍛冶屋という環境も手伝ってか、宗一郎は機械いじりやエンジンに興味を持ち始めて祖父に背負われて 発動機がある精米屋や鋸が動く製材屋によく連れていってもらっていた。機械が動く姿を見るのがたまらなく好きで 、機械さえ眺めていればご機嫌だったのだ。小学校高等科の卒業が迫った頃、宗一郎は、『輪業世界』という雑誌の 中で、東京の自動車修理工場『アート商会』の求人広告を見つけた。自動車に憧れていた宗一郎は、アート商会に 弟子入り希望の手紙を出して承諾を得ると卒業後、すぐに上京。アート商会の丁稚奉公となったのである。 アート商会の主人・榊原郁三は宗一郎の非凡な才能を見抜き、目を掛けていた。宗一郎をモータースポーツの 世界に目を開かせたのも榊原だった。1932年(大正12年)アート商会は、自動車レースに参戦を果たし、榊原を 中心にレーシングカー作りを始める。宗一郎もチームに加えられ「カーチス号」を製作。第5回日本自動車競走大会 で優勝を果たした。この体験を通じて宗一郎は、モータスポーツへの情熱を生涯燃やしつづけていくのである。

★独立して才能開花
修理工として技術をマスターした宗一郎は、主人の榊原から認められ、のれん分けを許された。宗一郎は、故郷に帰り 「アート商会浜松支店」をオープンした。そして当時、木製だった車輪のホイールに代わる鋳物製のホイールを 発明するとこれが大当たり。海外に輸出されるほど大好評となった。この頃の宗一郎は、修理に飽き足らず、さまざまな ものを改良したり製作したりしており、「浜松のエンジン」と呼ばれていたという。そして1935年(昭和10年)宗一郎は 生涯の伴侶となる磯部さちと見合い結婚した。工場経営は、順調であったが自分の手で何かを始めようと決心した。 東海精機重工業を設立して、ピストンリングの研究を開始したのである。しかし、ピストンリングは、製造困難な代物 でなかなか思うようにいかない。「一生のうちでもっとも精根を尽くし、夜を日に継いで苦吟し続けた」と語るほど 苦しんだ。なぜこうもうまくいかないものか、それは冶金の知識が欠けているからに違いないと宗一郎は考え、浜松 高等工業学校(現・静岡大学工学部)の聴講生となり、基礎から勉強を始めたのである。 (左の写真は、浜松高工の校舎)
浜松高工(現、静岡大学工学部) 30歳の社長学生は、先生が 歩いて登校するなか自動車で通学したため、たちまち評判となった。基礎を身に付けようと必死に講義を聞き、学校から 帰ってくると深夜まで研究に没頭する生活を2年間ほど続けたが、ある日、校長から退学を言い渡されてしまった。 ピストンリングに役に立ちそうな講義しか出席せず、一般教養など他の科目は試験すら受けなかったためである。 宗一郎は、この処遇を気にせず、その後も講義に忍び込んで学び続けてようやく試作に成功したのである。 そして東海精機の社長に就任しピストンリングの販売を始めた。これがトヨタの目に留まり、トヨタは役員を送り込んできたのである。

★日本一のバイクメーカー誕生
1946年(昭和21年)の夏、宗一郎は東海精機の工場跡地に小さな工場を建てて従業員わずか10名程度で本田技術研究所 を設立した。衣料品が不足していたことから、ロータリー式の織機を作ろうとしたが、資金不足で挫折。思案に暮れていた 宗一郎は、友人宅で旧陸軍の小さなエンジンに出会う。「そうだ、これを自転車用の補助動力に使おう」・・・荒廃した 日本の交通事情は劣悪で、大衆の移動手段は主に自転車だった。これに補助動力を付ければ、便利で役立つだろうと 考えたのである。宗一郎は、さっそく試作にとり掛かり、湯たんぽを燃料タンク代わりにするなどして研究を重ね、 エンジン付きの自転車の試作第一号を完成させた。バタバタと音を立てて走ることから「バタバタ」と呼ばれていた。 1952年(昭和27年)大衆向けの商品を要望する営業担当、藤澤の要望で、宗一郎は自転車用補助エンジン「カブF型」を開発した。 藤澤が全国の自転車店にダイレクトメールを送って販路を拡大。人気の日劇ダンシングチームのメンバーが「カブF」に 乗って銀座をパレードするという派手な宣伝効果もあって半年で25000台の売り上げを記録する大ヒット商品となって ホンダは日本一のバイクメーカーへ一気に駆け上がったのである。そして新製品「ドリームE号」は、箱根峠越えという 走行テストを実行。当時は、箱根峠は国産車にとっても走破は困難で、エンジンを休ませながら走らなければならない 所を一気にノンストップで駆け抜けたのである。E型は発売と同時に大ヒットし、ホンダはバイクメーカーとして大躍進 を果たすのである。

★世界のHONDAへ
もはや戦後ではない・・・奇跡の復興を遂げて高度成長の幕開けとなった1955年(昭和30年)、政府は自動車産業の 育成をもくろみ、国民車育成要綱を打ち出した。それから3年後の1958年(昭和33年)、宗一郎は自動車の研究開発 チームを新設。軽自動車の開発を進めた。ところが情勢は一変する。1961年(昭和36年)5月、アメリカから貿易自由化 を突き付けられた政府は、自動車メーカーの国際競争力を高めるため、トヨタ・日産など既存メーカーを優遇して、 異業種企業の新規参入を規制する「特定産業振興臨時措置法案」、通称・特振法案を準備し始めたのだ。そのために 法案成立までに自動車メーカーという規制事実を作る必要に迫られた。そして第9回全日本自動車ショウに出品した 「S360」「T360」をベースに自ら総指揮官となって「N360」を開発。1967年(昭和42年)に販売開始されると、わずか 3か月で軽自動車の販売台数トップとなり、ホンダは軽自動車メーカーとして確固たる地位を築いたのであった。

CVCCエンジン CVCCエンジン 1970年(昭和45年)、アメリカで大気汚染防止のための法律「マスキー法」が制定された。これにより自動車の 排気ガス中に含まれる有害物質の排気量を現行の10分の1に規制するという厳しい基準が設けられ、どの自動車メーカー にも基準クリアは不可能と思われた。宗一郎は、「世界中のメーカーが同時スタートを切る。ホンダにとって こんなチャンスはない。」と果敢に挑んだ。1972年(昭和47年)10月11日に発表されたCVCCエンジンは、 同年12月にアメリカの走行テストに合格し、マスキー法合格1号となった。CVCCエンジンを搭載した小型乗用車 「シビック」は翌年1973年の「日本カー・オブ・ザ・イヤー」に輝き、アメリカ環境保護庁の燃費テストでは 、1979年〜4年連続で燃費第一位を記録し、ホンダは自動車メーカーとしての技術の高さを世界中に知らしめた。

★次代に託したスピリット
ホンダは、初の普通車となる「H1300」を販売するが不振に終わる。この車の開発では、「空冷」か「水冷」かで エンジニアと衝突。藤澤は、宗一郎に「社長としての道を取るのか?技術者としての道をとるのか?」を決断を 迫ったという。結局、社長としての決断からエンジニアが進める「水冷」エンジンの開発を許可した。宗一郎の 技術者としての限界を感じさせる出来事だった。そして1973年(昭和48年)、一連の出来事で後進が育ってきた 事を実感した宗一郎は、「俺は、藤澤武夫あっての社長だ。副社長がやめるなら俺も一緒にやめるよ」と、藤澤 とともに株式総会にて退任したのだ。2代目社長は、大卒第一号の河島喜好が就任した。 宗一郎の退任から17年後、アメリカでの事業拡大に向け、新しいホンダの顔となるスポーツカー「NSX」が誕生した。 この車は、車体部分が世界初のフルアルミニウムであることを知った宗一郎は「おれは早く辞めてよかったなぁ」 と言って自分に時代では叶えられなかった技術を取り入れた次世代の技術者たちを称賛したという。また、1989年 (平成元年)には、CVCCエンジンの開発で自動車業界への貢献が認められ、日本人初となる自動車殿堂入りを果たす。 その後も精力的に活動した宗一郎も年波には勝てず、肝臓が弱り、脳血栓で入院するなど、元気に陰りが見え始める。 そして1991年(平成3年)肝不全のため死去。戦後の荒廃から世界一を夢見て、全力で駆け抜けた人生に幕を下ろした。 その死は全世界のメディアによって報じられ「ニューヨークタイムズ」は一面で追悼記事を掲載した。 ホンダは、彼の生前からの口癖を尊重し、社葬は開かず、「お礼の会」を東京・熊本・浜松・鈴鹿・埼玉・栃木で 開催。会場には、宗一郎が「俺の人格の一部である・」と言っていた製品が展示され、老若男女を問わず多くの来場者が 訪れた。その数は、開催された2日間で延べ6万2千人にも及んだ。

★ホンダ失敗作ミュージアム ホンダシビック
宗一郎は、「成功は99%の失敗に支えられた1%だ。」を座右の銘にしていた。数々の名車を創作し「天才」と称された 宗一郎は、幾度とない失敗を乗り越えた努力の人である。ホンダの輝かしい世界的企業への道程は、独創的で完璧な 製品を世に送り出す事に執念を燃やした技術者の「失敗」と、それを踏み台にした「成功」の繰り返しだったのである。 1968年(昭和43年)ホンダは、「特許の塊」と称された程、独創的な乗用車「H1300」を発表したが、売れなかった。 大きな問題があったのだ。原因はエンジン方式だった。エンジンの構造が複雑になり過ぎ、重量が増して、運動能力が 低下したりタイヤの偏消耗の原因となった。しかし、この時の経験が役立つ。1972年(昭和47年)「シビック」の 誕生である。「H1300」の反省を存分に生かして誕生した「シビック」は、シンプルでバランスが良く、更に低価格な ホンダを代表する名車となった。



サーキット、技術者魂・・・受け継がれるホンダイムズ


F1マシン

いつまでもオリジナリティを追及しつづけた宗一郎。その技術者魂は、「ホンダイムズ」として受け継がれ 、技術者たちに影響を与え続けている。軽々と国境を飛び越えて、世界的にも大きな存在感を持つ宗一郎が、 現代を生きる私たちに残したものとは・・・。

★世界を席巻したホンダブランド
1956年(昭和31年)、ホンダは海外進出を計画する。ホンダが売り出そうとしていた「スーパーカブ」は 社運を賭けて開発してきた切り札だった。進出先は、なんと自動車が最も普及していたアメリカだった。 「世界経済の中心であるアメリカで成功すれば世界に通用するはず。」という攻めの発想でアメリカ進出を 決めた。予想通り自動車王国のアメリカでは売れ行きは伸び悩んだ。そこで宣伝攻勢に出たのだ。他社の 同クラスのバイクに比べて倍以上の馬力があり、小さくても取り回しも良い。しかも価格は破格の250ドル という魅力をアッピールしたのだ。そして「素晴らしい人々、ホンダに乗る」というキャッチコピーが 当たって主婦や学生など以前はオートバイに見向きもしなかった層に支持され、誕生日やクリスマスの プレゼントとしても人気を集めたのだ。その後、アジアでの生産拠点を整備して生産・販売したり ブラジルにも展開すると何と、国内の二輪車販売の80%を占めるようになった。アフリカ、中東、 オセアニアなどまさにホンダが走らない地域はない状況となったのである。

★鈴鹿サーキット建設と衝撃のF1参戦 ホンダ スーパーカブ
世界でも珍しい立体交差の8の字状で、緩急さまざまなカーブを持つコースは、テクニカルなレースが 期待できると評判になった。二輪・四輪とも大レースが次々と開催され、1987年(昭和62年)には念願の F1招致にも成功。「世界のスズカ」と日本を代表するコースとしての評価を確立したのだ。

★継承される技術者魂
宗一郎は、ものづくりに関して確固たる信念を貫いた。それは、ホンダのDNAとして今も社内に息づいている。 ホンダは、独創性の追求に強いこだわりを持っている企業で有名だ。その重要性を口酸っぱくして説いたのが 宗一郎だった。宗一郎は、とにかく人真似を嫌い、設計を見ると真っ先に「どこが新しいんだ?」「どこが ヨソと違うんだ?」と問ただすのが常だったという。その信念は、数々のホンダ製品が物語っている。

ヒト型ロボット「ASIMO」・・・1986年(昭和61年)に二足歩行の研究からスタート。
エアバックシステム・・・1987年(昭和62年)レジェンドに搭載し、今や車の標準装備となっている。
カーナビシステム・・・1981年(昭和56年)方向の変化を感知するジャイロという装置特性を生かした「ホンダ・エレクトロ・ジャイロケータ」。
ホンダジェット・・・2006年(平成18年)受注を開始した小型ジェット機。飛行機に憧れた宗一郎の夢だった。

現在、ホンダコレックションホールには宗一郎直筆の「夢」という文字が刻まれたガラスプレートが 置かれている。「The Power Of Dream」の広告のコピーにも表されているように、宗一郎は 夢を追って絶え間ないチャレンジを続ける人生を全うした。その姿は「ホンダイムズ」として受け継がれ 、現在もホンダが独創的な製品開発や社会活動に力を入れ続ける原動力となっている。











トップへ戻る

前のページに戻る

偉人・歴史人物ランキング

↑ここをクリックして応援、よろしくお願いします。




inserted by FC2 system