趣 味 あ ら か る と (My Wikipedia)
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◇歌川広重 浮世絵 東海道五十三次『京師』
⇒隷書版、行書版、保永堂版の画像をクリックすると拡大します。
小学校の三年生の時、学芸会の演劇「東海道中膝栗毛、弥次喜多の旅」で喜多八を演じたことがあり、また京都は修学旅行で初めて訪ねて以来、
ご無沙汰の地域です。徳川家康は関ケ原の戦いに勝つと、天下統一のために全国の街道整備に着手し、翌慶長六年(1601)に東海道に 宿駅伝馬
制度を敷きました。彼の平和に対する行動力の賜物、東海道五十三次の旅に私も出発する事としました。三条大橋は、慶長六年(1601)に
徳川家康によって定められた東海道五十三次の西の拠点です。
三条大橋は長さ57間2寸、巾4尺1寸で、一部は石製の基礎杭を初めて使った橋だそうです。『京師』には橋の上には雅やかな姿も見られ、そこを
渡る人々の取り合わせもおもしろいです。 遠景には東山36峰と比叡山が描かれています。 当時、江戸・京都間を普通に歩けば十数日の行程で
した。当時、旅人を迎える時は橋の西詰、見送る時は東詰だったといいます。橋の西詰には「東海道中膝栗毛」の主人公の弥次郎兵衛・喜多八
の像があります。喜多八に戻ったつもりで、旅を始めます。
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東海道の江戸方からは、草津川を越えて、堤防沿いに進むと、東横町・西横町と続き、中山道との合流点に至ります。
ここで左折し、一町目から六町目まで続き、宮川を渡って、最後が宮町です。中山道からは、天井川である
旧草津川をトンネルで抜けると追分に至るが、トンネルができたのは明治19年(1886年)のことでした。
草津というと温泉くらいしか思い出せなかったけど、本当に琵琶湖に面した長閑な場所でした。日本武尊や
松尾芭蕉とのゆかりもあり、今やってる大河「明智光秀」の坂本城もあって、京に近く、この近江を制するのは
古くから重要であるとの認識を新たにしました。(2020/2/20 歩行)
★義仲寺★拡大は⇒クリック
松尾芭蕉が琵琶湖湖畔のこの場所を気に入り、義仲寺に葬るように遺言したため、ここに芭蕉に墓があります。平安時代源氏、平氏
の戦いで、平氏討伐で立ち上がったのが、源頼朝や木曽義仲でした。仲が悪かった源頼朝の弟・源義経が、鎌倉から数万の大軍を率いて京に
のぼってきます。後白河法皇は、源義経ら源頼朝の鎌倉勢を頼りにすることへ方針転換したため、追い詰められた木曽義仲は、後白河法皇
捕らえて幽閉しています。こうして、1184年、宇治川の戦いなどで源範頼・源義経と戦いますが、すでに人望を失っていた木曽義仲の軍勢は
脱落者が多く僅かで敗戦となります。木曽義仲は、北陸へ逃れようとしましたが、ここ粟津の戦いにて数騎にまで討ち減らされ、最後は顔面に
矢を受けて討死しました。享年31。
★膳所城北総門跡★拡大は⇒クリック
関が原の戦いに勝利した徳川家康が、大津城を廃し、城作りの名手と言われた藤堂高虎に築かせた城です。城郭は残っていませんが、
大津市内の至る所に、移設された城の一部が残っていました。
★和田神社★拡大は⇒クリック
鎌倉時代に建築された本殿は、国の重要文化財に指定されています。境内の銀杏は、樹齢600年の巨木です。
★篠津神社★拡大は⇒クリック
重要文化財に指定されている神社の表門は、膳所城北大手門を移築したものです。
★若宮八幡神社★拡大は⇒クリック
壬申の乱があった3年後の白鳳4年(675年)天武天皇が宇佐八幡の神託により造営しました。
★瀬田の唐橋★拡大は⇒クリック
日本三名橋の一つで近江八景「瀬田の夕照」で名高い名橋。古くは「瀬田橋・瀬田の長橋」とも呼ばれ日本書紀にも登場します。
★建部大社★拡大は⇒クリック
近江一の宮と言われ、長い歴史と由緒を持つ全国屈指の古社です。祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)だそうです。大社の
入り口で販売していた「しじみ飴」(ニッキ)は、今でも良く食べます。
★大萱一里塚跡★拡大は⇒クリック
石碑は昭和51年に瀬田大萱の有志が建立。この付近の町名、一里山もかつての一里塚にちなんだものです。
★野路荻の玉川跡★拡大は⇒クリック
野路の玉川は、平安時代末から有名になった歌所で、荻の玉川とも言われ日本六玉川の一つとして知られています。
★野路一里塚跡★拡大は⇒クリック
日本橋から119番目の一里塚。現在は上北池公園になっています。
★瓢泉堂★拡大は⇒クリック
もとは草津名物「姥が餅屋」のあった場所。現在は、草津駅入り口近くの国道一号線沿いに移転。
★矢倉道標★拡大は⇒クリック
寛政10年(1798年)東海道と矢橋街道の分岐点に建てられた石造道標。東海道を道行く旅人を矢橋の渡し場への道案内するものでした。
★立木神社★拡大は⇒クリック
滋賀県随一の古社。旧東海道に面して鎮座し、古くより交通安全厄除けの神社として信仰を集めています。
★脇本陣跡★
現在は、草津観光物産館として利用されています。
★草津宿本陣★拡大は⇒クリック
全国に残る本陣の中でも最大規模。田中七左衛門家は、材木商を営み、もう一つの本陣と区別して、「木屋本陣」と呼ばれ、土方歳三も
宿泊しました。
★追分道標★拡大は⇒クリック
東海道と中山道の追分。追分に建つ道標は「右東海道いせみち」「左中山道美のじ」と刻まれています。
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石部宿は京都を出て1日の行程にあり、「京立ち石部泊り」と言われました。宿場内には、本陣2軒(小島本陣、三大寺本陣)、旅籠32軒を
含む458軒が街道の両脇約1.6キロメートルにわたって建ち並び(1843年当時)、その中央には宿役人の詰める問屋場と高札場がありました。
奈良にも近いので、奈良時代後期、崇神天皇の頃に開山された古社など見るべき史跡が多かったです。まだまだ琵琶湖との深い関係の中で
生活が維持されている様子もうかがえました。(2020/3/20 歩行)
★目川立場跡★拡大は⇒クリック
東海道往来の旅人に休憩の場として、栗東市岡から目川にかけて立場茶屋が並び、地元食材を使った菜飯や田楽が評判を得ていました。
★目川一里塚跡★拡大は⇒クリック
日本橋から118番目の一里塚です。
★鈎(まがり)の陣跡碑★拡大は⇒クリック
室町幕府九代将軍・足利義尚の陣所跡と伝わり、長享元年(1487年)10月から1年5か月間、御所としてこの地が政治の中心地となりました。
★六地蔵一里塚跡★拡大は⇒クリック
街道と旧葉山川跡に整備された県道116号線の平行部分の西端にあります。
★旧和中散本舗★拡大は⇒クリック
「和中散」は腹痛などによく効く薬として評判で、現在も製薬機械が残っています。屋敷奥の庭園(大角氏庭園)は、国の指定名勝となっています。
★西見附跡★拡大は⇒クリック
宿場の街頭の出入り口にも見附が構築されましたが、土手状のもので石部宿の場合、東西二か所にありました。
★三上山★拡大は⇒クリック
『古事記』『延喜式』にも記述が見え、また和歌にも詠まれた由緒ある山です。紫式部が「打ち出でて 三上の山を 詠れば 雪こそなけれ
富士のあけぼの」と詠んだように近江富士という愛称があります。藤原秀郷(俵藤太)による大ムカデ退治伝説が残ることから「ムカデ山」の
異名も持ちます。
★田楽茶屋★拡大は⇒クリック
木造平屋建てで、観光客などが休憩できるようになっています。
★吉御子神社★拡大は⇒クリック
奈良時代後期、崇神天皇の頃に開山された古社。吉姫神社とは対の関係になります。
★小島本陣跡★拡大は⇒クリック
慶安3年(1650年)吉川代官屋敷あとに創建され、承応元年(1652年)に膳所藩主・本多俊次公、康将公に忠勤の功により本陣職を拝命されました。
★高札場跡★
高札とは、人々の守るべき規範を示すために全国規模で掲げられた公儀触書の一種です。
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水口宿(みなくちしゅく、みなくちじゅく)は、近江国甲賀郡にあった東海道五十三次の50番目の宿場です。現在は滋賀県甲賀市水口町旧市街。
石橋を境に、東側は道が三筋に分かれた宿場町、西側は水口城の城下町で道が鍵の手になっています。室町時代に宿駅の機能を有するようになりました。
1601年に宿駅に指定されました。1634年に水口城が築かれ、1682年に水口藩が成立して城下町にもなりました。(2020/10/17 歩行)
★吉姫神社★拡大は⇒クリック
石部西の吉御子神社(男神様)とは対の関係に当たる古社です。
★夏見立場新田道★拡大は⇒クリック
かっては名物ところてんを出す茶屋があり、賑わったとされます。
★夏見一里塚跡★拡大は⇒クリック
日本橋から115番目の一里塚です。
★うつくしの松★拡大は⇒クリック
美し松、(学名 Pinus densiflora f.umbraculifera)とは、根元近くから幹が放射状に分かれて上方へ伸び、まるで剪定された庭木のような樹形を
もつアカマツの変種。1ヶ所にまとまって生育している要因は劣性遺伝によるものと判明しており、自然状態で交配を重ね自生地を形成しているのは、
東海道五十三次の水口宿と石部宿の中間、石部宿寄りの街道沿いにほど近く、東海道を往来する人々にも松の名所として古くより知られており、その
優美な姿から「美松」「美し松」と呼ばれて大切にされています。根元から枝分けしてて、松のイメージがありませんが、松葉も広がりがあり、美しい
松でした。
★大沙川隧道★拡大は⇒クリック
隧道とは、街道の通行を良くするために造られたアーチ型のトンネルのこと。滋賀県湖南市の大沙川(おおすながわ)は、典型的な天井川(砂礫の
堆積が原因で河床が周辺よりも高くなった川)。大沙川の下をトンネル(隧道)で通り抜ける大沙川隧道は、明治17年3月竣工という石造の隧道。
建設当初の位置で現存する現役の石造道路隧道としては、日本最古のもので、湖南市の文化財、土木学会の土木遺産になっています。大沙川隧道の
上に生育する巨杉が樹高26m、樹齢750年という弘法杉。空海(弘法大師)がこの地を通りかかった際、食事をとり、その時使った杉箸を刺した
ところ(あるいは杉苗を手植えとも)、成長して大杉になったという伝説が残され、箸2本とも生育したので、かつては2本杉だったとのこと。
その後、空海が植えた杉は朽ち果てましたが、鎌倉時代ころに地元の人が2代目を植栽。安永2年(1773)の台風で堤防が決壊して、1本が失われて、
残りの1本が現存しているのです。
★弘法寺★拡大は⇒クリック
樹齢約750年の大杉。弘法大師がここで昼食を取り、使用した杉箸を突き刺したところ根付いたものと思われています。湖南市の
指定文化財です。
★横田の渡し跡★拡大は⇒クリック
野洲川は、昔は横田川と呼ばれ、支流の杣川(そまがわ)と合流する為、流れが早く旅人を悩ませました。横田の渡しは「東海道十三渡し」
のひとつです。
★横田渡し跡常夜燈★拡大は⇒クリック
文政五年(1822年)建立。高さ7mの常夜燈は東海道最大級の大きさです。
★泉一里塚跡★
当時は現在地よりやや野洲川寄りにありましたが、モニュメントとして整備された際に移動されています。
★北脇縄手★拡大は⇒クリック
泉一里塚跡から西見附跡まではほぼ一直線の道で。この道を北脇縄手と呼びます。
★林口一里塚跡★
五十鈴神社の境内にあり、日本橋から113番目の一里塚です。
★水口城跡★拡大は⇒クリック
水口城は野洲川の中流域にあり、周辺はなだらかな水口丘陵です。北に東海道、南方に水口神社、そして
野洲川が流れます。南部は野洲川の後背部で田が広がっています。また、甲南部、杣谷を経て伊賀へと
抜ける間道"伊賀街道"が通っています。
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大雨の中を大名行列が川を渡る様子を描いています。ここ辺りは鈴鹿峠を境に天候が変わりやすかったのです。平安時代に伊勢参宮道が鈴鹿峠を
越える旧東海道筋を通るようになって以来、土山は難所を控える宿駅として発展してきました。鎌倉時代、京都と鎌倉を結ぶ東西の交通路が
さらに重要視され、武士だけでなく商人、庶民の通行も盛んになりました。江戸幕府が土山を宿駅に指定してから、宿場町として真に隆盛し
はじめました。(2020/11/14 歩行)
★三筋の道★拡大は⇒クリック
豊臣秀吉が天下の時代、水口岡山城が築かれ、その南側の集落が城下町として発展しました。水口宿の特徴である三筋の道は
この時に施設されたといわれています。
★大岡寺★拡大は⇒クリック
境内に芭蕉の俳句があり、「命二つの 中に生きたる 桜哉」の句碑が建てられました。ここにある桜は、現在水口八景の一つに
数えられています。
★高札場跡★拡大は⇒クリック
水口宿札の辻。三筋に分かれた北側の一筋が、ここで旧東海道と合流。その合流地点に高札場が置かれていたため、札の辻と
呼ばれました。
★水口宿鵜飼本陣跡★拡大は⇒クリック
明治2年(1869年)明治天皇の宿泊を最後に本陣職が廃され、後に建物は撤去されました。
★東見附跡★拡大は⇒クリック
水口宿江戸方出入り口、東見附跡。往時は、枡形の土居が巡らされ木戸や番所が置かれていました。
★今在家一里塚跡★拡大は⇒クリック
日本橋から112番目の一里塚で、水口町域では泉、林口、今在家(現在の今郷)の三か所に一里塚が設けられました。
★垂水斎王頓宮跡★拡大は⇒クリック
平安時代の初期から鎌倉時代の中期頃まで斎王が宿泊された頓宮(仮の宮)の跡地。国の史跡に指定されています。
★御代参道道標★
皇族が派遣した代参の使者が通ったので「御代参道」の名が付きました。
★土山宿本陣跡★拡大は⇒クリック
寛永11年(1634年)三代将軍徳川家光の上洛の際、設けられた本陣です。現在でも宿帳など資料が文化財として保存されています。
東海道で子孫が住んでいる唯一の本陣です。泊まる人の位が高いため、他の旅籠とは建物の規模が違い豪華な造りになっています。
備中、細川藩の定宿だったり天皇家の宿泊時には「三種の神器」も飾られたそうです。
★井筒屋/平野屋跡★拡大は⇒クリック
旅籠、井筒屋は森鴎外の祖父、森白仙の終焉の地でもあります。その白仙の墓参りに訪れた鴎外が宿泊したのが向かいの平野屋です。
★白川神社★拡大は⇒クリック
土山宿の鎮守です。
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鈴鹿馬子唄では「坂の下では大竹小竹 宿がとりたや小竹屋に」(大竹屋は坂下宿の本陣の1つで小竹屋は脇本陣です。本陣である大竹屋に庶民が
泊まるのは不可能だが、脇本陣の小竹屋には少なくとも泊まってみたいものだ。)と唄われ、旅籠や本陣も数多く東海道有数の盛況な宿でした。
古代からの交通の要衝で、壬申の乱の頃に古代三関の一つ「伊勢鈴鹿関」が置かれました。江戸時代も、東の追分からは伊勢別街道、西の追分からは
大和街道が分岐する活気ある宿場町でした。現在も、東西追分間の旧東海道沿いに、当時の宿場の古い町並みが残されています。宿場の名は、
愛発の関(越前国)・不破の関(美濃国)とともに「日本三関」に数えられ、670年頃に軍事上の目的で設置された「鈴鹿の関」に由来します。
壬申の乱(672年)に大海人皇子(天武天皇)が、鈴鹿の関を閉ざしたことは有名です。(2020/12/13 歩行)
★田村神社★拡大は⇒クリック
野洲川(やすがわ)の支流田村川沿いにあり、閑静な森の中にある古社。平安時代初期、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を祭神として創建された
といいます。田村麻呂の鬼退治の伝説には、鏡岩の伝説が残されています。鏡岩は鈴鹿峠を三重県側に少し下ったところにある大岩です(三重県指定天然記念物)。
むかし、鈴鹿峠に一匹の鬼が住んでいて、峠を通る旅人の姿が鏡岩にうつるたびに捕らえて食べてしまいました。これを伝え聞いた坂上田村麻呂が鈴鹿へやって
きて鬼を弓で射ると、矢を受けた鬼は岩の上にころがり落ちて息が絶えたということです。広大な神域は深い樹林に囲まれ、一見して社域と思わせる
景観をなしています。大きな銅の鳥居をくぐって、森の中の参道を歩いていくと正面に見えるのがるのが舞殿で、その奥にあるのが、拝殿と本殿です。
拝殿は、軒回りや天井下に花鳥の彫刻があり、拝殿としては規模の大きなものです。本殿は、向拝に牡丹と孔雀、そして鳳凰(ほうおう)を彫刻
してあり、県下の江戸時代の社殿としては、注目すべき建築です。
★田村川橋★拡大は⇒クリック
歌川広重が田村川に架かる橋を描いた浮世絵が残されています。
★蟹坂古戦場跡★拡大は⇒クリック
天文11年(1542年)9月、伊勢の国司北畠具教と山中丹後守秀国が戦った場所です。
★猪鼻村立場★拡大は⇒クリック
鈴鹿山脈の西方に位置する立場で、草餅や強飯がここの名物でした。
★山中一里塚★拡大は⇒クリック
日本橋から109番目の一里塚。公園内には櫟野観音像(いちいのかんのん)道標、鈴鹿馬子唄之碑があります。
★万人講常夜燈★拡大は⇒クリック
江戸時代中頃、四国の金毘羅神社の常夜燈として鈴鹿峠に建てられ、東海道を往来する行商人信者が常夜燈に火を燈し、航海と道中の安全
を祈願されていました。
★法安寺★拡大は⇒クリック
法安寺庫裏立の唐破風造の玄関は、松屋本陣の玄関を移築したものです。
★鈴鹿峠★拡大は⇒クリック
盗賊の横行する場所としても名高く、新道開通12年後の昌泰元年(898年)には伊勢神宮への勅使一行が襲撃され、以後鈴鹿山の盗賊は
たびたび史書に現れることとなります。こうしたなかで、坂上田村麻呂による鬼神大嶽丸退治や、女盗賊立烏帽子(鈴鹿御前)の伝承が
生まれます。峠をへだてて滋賀県側には土山の田村神社が、三重県側には坂下の片山神社があり、それぞれ田村麻呂や鈴鹿御前を祀り、
室町時代・江戸時代を通じて東海道の旅人たちの守護神として崇敬されました。建久5年(1194年)、近江国甲賀郡の鈴鹿峠の麓を領して
いる御家人山中俊直が鈴鹿山警固役に任じられ、嘉禄2年(1226年)には山中俊信が盗賊を退治した功によって山中村地頭・鈴鹿山盗賊
追捕使に任じられています。以後も山中氏は代々鈴鹿峠の警備を任されました。江戸時代には東海道五十三次として坂下宿・土山宿が
整備されます。正徳年間(1711年〜1716年)、重さ38t、高さ5.44mと巨大な万人講常夜燈を四国の金毘羅まいりの講中が鈴鹿峠に建てた
と伝えられています。
★筆捨山★拡大は⇒クリック
鈴鹿山脈を形成する山の一つで鈴鹿峠から見て南東に位置し、鈴鹿国定公園に属しています。本来、この山の呼称は岩根山であったが、
室町時代の絵師である狩野元信が沓掛(関町沓掛)でこの山を描こうとしたところ、2日目に雲や霞が発生して漂ってしまい山の全景が
前日とは大きく異なってしまったため、描くのを断念して筆を捨てたことから筆捨山と呼ばれるようになったと伝えられます。
江戸時代から名勝として名高く、東海道中を行き交う人々は対岸の筆捨集落にある茶屋から雪月風花を味わったといます。 坂下宿を
著した浮世絵の多数はこの筆捨山の景観を描いていました。
★鈴鹿馬子唄会館★
馬子の唄とは、馬追いが馬をひきながら唄う歌のことです。
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広重の亀山は「雪晴」。粉蝶城という別名を持つ亀山城の前を松の間から見え隠れしながら大名行列が連なっていく。銀世界に映える朝日を左手の
紅色の空のぼかしで表わしている。亀山と言えばローソクが有名。今の亀山市には、3つの宿(関/亀山/庄野)を有する当時としては重要な場所に
あったようです。ガイドの方も自慢していました。京を発して丁度、最初の峠越え。江戸からくれば「箱根」にあたる宿場だったようです。(2020/7/11 歩行)
庄野宿は江戸から百二十里(約400Km)、江戸から数えて45番目の宿場町である。幕府の直轄領で東海道五十三次中では最も遅れて、寛永元年(1624)に
設置されました。広重の庄野の「白雨」はシリーズ中でも傑作と言われています。名作「蒲原」との双璧という事でしょうね。蒲原は雪景色、庄野は
雨模様。その対比(コントラスト)は、何とも言えない妙味があります。(2020/7/11 歩行)
★地蔵院★拡大は⇒クリック
天平13年(741年)、奈良東大寺の僧行基の開創と伝えられる寺院。日本最古の地蔵菩薩があり、境内の本堂、鐘楼、愛染堂は国の重要文化財に指定。
★関宿高札場跡★拡大は⇒クリック
ここには8枚の高札が掲げられ、生活に関わる様々な模範、キリシタン令や徒党・強訴などの禁止といった幕府の禁令、隣接宿場までの人馬駄賃の
規定などが書かれていた。
★鶴屋脇本陣★
玉屋、会津屋とともに俗謡にも詠われた関を代表する旅籠のひとつ。脇本陣の玄関前についた千鳥破風がその格式を示している。京側(あいづや)
と江戸側(会津屋)の旅館表示方法が異なっている様子が写真から分かります。
京側(あいづや)の旅館表示方法の拡大は⇒クリック
江戸側(会津屋)の旅館表示方法の拡大は⇒クリック
★関まちなみ資料館★
文政8年(1825年)の火事後の再建と推定される江戸時代末期の町家。関宿における町屋の典型を今に伝えます。
★御馳走場跡★拡大は⇒クリック
宿場の役人が、関宿に出入りした身分の高い武家や公家に対して衣服を改め宿場両端のご馳走場まで出迎えや見送りを行った場所。
★東追分・伊勢別街道鳥居/関一里塚跡★拡大は⇒クリック
日本三名橋の一つで近江八景「瀬田の夕照」で名高い名橋。古くは「瀬田橋・瀬田の長橋」とも呼ばれ日本書紀にも登場します。
★小萬のもたれ松★拡大は⇒クリック
亡き父の仇討ちをすべく、小萬が剣術修行の為、亀山に向かう際、若者の戯れを避けるために、この松に姿を隠したことから
「小萬のもたれ松」と呼ばれました。
★野村一里塚跡★拡大は⇒クリック
日本橋から105番目、京三条大橋からは、20番目となる一里塚。片塚だけになったが、樹齢400年の椋(むく)の巨木がそびえたってます。
国の史跡に指定。
★亀山城・京口門跡★拡大は⇒クリック
「亀山に過ぎたるものの二つあり、伊勢屋蘇鉄に京口御門」と詠われた門。冠木門、棟門、白壁の番所と石垣などがあり、京側の
坂下から見上げると壮麗を極めるものでした。
★加藤家長屋門・武家屋敷跡★
江戸時代後期、亀山城主・石川家の家老職にあった加藤家の屋敷跡。土蔵のなまこ壁や長屋門の白壁が城下町の面影を残し、
建物は平成2年の修復工事で幕末当時の姿に復元されました。
★西町問屋場跡★
江戸時代の各宿にて主に公用の荷物などを運ぶ伝馬人足の継ぎ立てのほか、一般の商品物資の継ぎ立て業務を行う施設で、町の重役である
宿役人がこれを受け持ったとされます。
★矢倉道標★
寛政10年(1798年)東海道と矢橋街道の分岐点に建てられた石造道標。東海道を道行く旅人を矢橋の渡し場への道案内するものでした。
★亀山城跡/多門櫓★
江戸時代における伊勢亀山藩藩主の居城。寛永13年(1636年)には城主・本多俊次の手で大改修が行われ、天守を失った天守台に多門櫓が
築造されました。
★亀山城/大手門跡★
東海道に直面する亀山城の正門として位置づけられる門。大手櫓と大手脇櫓から構成される枡形門で、一の門が省略されたものとなっていました。
★亀山城/江戸口門跡★
北側と東側に堀を巡らし、土塁と土塀で囲まれた曲輪を形成し、東端には平櫓が一基築かれていました。
★和田一里塚跡★拡大は⇒クリック
野村一里塚と共に亀山市内に所在する日本橋から104番目の一里塚。慶長9年(1604年)幕府の命により亀山城主であった関一政が築造。
★女人堤防碑文★拡大は⇒クリック
鈴鹿川と安楽川の合流するあたりを汲川原といいます。合流点では、しばしば川の氾濫が起き人命が失われました。言い伝えによると村人たちは堤防を
築くことを神戸藩に願い出たが、藩は堤防ができると対岸の城下町に浸水の恐れありとして許可しませんでした。そこで人々は、処罰覚悟で工事に
踏み切ったが村人の菊という女性が「工事にかかわった男たちは打ち首になり村は全滅します。私たち女だけで堤防をつくろう」と200人余の
女性だけによる工事が始まりました。6年後に堤防は完成したが、やがて藩主の知るところとなり首謀者の菊らは、あわや処刑される寸前、家老の
松野清邦の嘆願により助命されました。かえって、その志にたいし金一封が贈られたと言われています。
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弘化2年(1845)のころの職業構成では全戸の約7割が百姓をしめており、農村的性格の強い宿場でした。天領であったこの地に
宿駅が設置されたのは、元和2年(1616)と遅く、それまでは高富村と呼ばれていました。
四日市宿は、伊勢参拝の分岐点ともなり大いに賑わいました。東海道五十三次の43番目の宿場。現在は、三重県四日市市。幕府直轄の天領であり、
代官所が置かれていました。宮宿との間に「十里の渡し」がありました。宿内人別:7114人(男3522人、女3592人) 宿内総家数:1811軒(本陣2、
脇本陣1、旅籠98)
三重県の県庁所在地が四日市ではなく、津に置かれたのは城が無かったのが理由とも言われたようですが、本当に賑やかな
宿場町だったようです。(2020/9/19 歩行)
★川俣神社★拡大は⇒クリック
亀山宿から庄野宿の間に三社ある川俣神社のうちのひとつ。境内には幹回り約5M、樹高は約11Mのスダジイの神木があり
県指定の天然記念物となっています。
★庄野宿資料館★拡大は⇒クリック
江戸時代は、油屋だった旧小林家の建物。町に残る宿場町関連の資料の活用と旧小林家の保存を進めるため、主屋の一部を創建当時の
姿に復元し、平成10年に開館しました。
★石薬師一里塚跡★拡大は⇒クリック
もとは蒲川の西岸に位置し、かっては東海道の両側に榎が植えられていました。日本橋から102番目の一里塚です。
★御曹子社★
「蒲の冠者」といわれた源範頼を祀った神社です。昔は弓矢を奉納し、文武の向上を祈願する習わしがありました。
境内には範頼所縁の「石薬師の蒲桜」があります。
★石薬師寺★拡大は⇒クリック
神亀3年(726年)高僧泰澄が、霊光を放つ巨石を薬師如来の示現と感じ、堂を建てたのが開創。
その後、弘仁3年(812年)弘法大師が薬師尊像を彫刻し、開基しました。
★佐佐木信綱生家跡★拡大は⇒クリック
明治から昭和時代の歌人・国文学者。幼少より父・佐佐木弘綱から歌学・国学を学び、生涯に1万首を作歌しました。
学者としても万葉集の研究に一生を捧げ多くの業績を残しました。
★小澤本陣跡★拡大は⇒クリック
かって小澤本陣周辺には高い松の木があり、「松本陣」と呼ばれていました。宿帳をはじめ宿場関係の
古文書を今に多く残しています。
★大木神社★
石薬師の氏神で由緒ある式内社。社殿後の森は、市指定の「椎の森」で椎の巨木は鈴鹿市の天然記念物にしていされています。
★采女一里塚跡★拡大は⇒クリック
日本橋から101番目の一里塚です。
★血塚社★拡大は⇒クリック
伊吹山の神と戦い、傷ついた日本武尊が険しい杖衝坂を登り、この場所で足から流れた血を洗い流したと言われています。
★杖衝坂・芭蕉句碑★拡大は⇒クリック
傷を抱えた日本武尊が剣を杖代わりにして登ったと言われる坂。中腹には芭蕉の
「歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬かな」が刻まれてた句碑があります。
★日永の追分★拡大は⇒クリック
東海道から伊勢街道が分岐する追分。古くから伊勢参りの旅人が往来し、旅籠や茶屋が並び、
間の宿として賑わってました。今も伊勢神宮の遥拝鳥居が立っています。
★日永一里塚跡★拡大は⇒クリック
もとは東海道の両側に5m四方で高さ2.5mの塚が築かれた一里塚。日本橋からちょうど100番目の
一里塚となります。
★日永神社★拡大は⇒クリック
昔は「南神明社」と呼ばれ、建仁年間(1201〜1204年)頃に創建されました。境内にある
追分旧石標は、嘉永2年まで日永の追分に立っていたものです。
★大宮神明社★
往時は、「永宮さん」と呼ばれ信仰されていた天照大神を主祭神として祀る神社です。もとは海辺にあった
舟付明神が400年ほど前の火災により現在地に遷されました。
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脇往還佐屋街道もここから分岐していました。徳川四天王の本多家のほか、各松平家の大名が藩主を務めた桑名藩の城下町でもあります。
かつてのルート、桑名宿と宮宿とを繋ぐ海上七里4時間ほどの船路は「間遠の渡し」とも言われました。江戸時代後期の調査では、本陣2軒、脇本陣4軒、
旅籠屋120軒を擁し、家数2,544軒、人口8,848人(男4,390人、女4,458人)であったと記録されていて東海道では旅籠屋数で宮宿に次ぐ2番目の規模を
誇りました。人口数では、大津、駿府に次いで3番目の宿場町です。(2020/10/18 歩行)
★諏訪神社★拡大は⇒クリック
鎌倉時代初期の建仁2年(1202年)、信州の諏訪大社の御分霊を勧請し創きされたと伝わ神社。社頭が東海道に面しており、多くの
旅人が道中に参拝しました。
★四日市道標★拡大は⇒クリック
往時は、このあたりが宿場の中心地でした。
★黒川本陣跡★拡大は⇒クリック
四日市宿本陣では最初は清水太兵衛家が勤め、江戸後期には南町の黒川彦兵衛家が勤めていました。
★笹井屋★
天文19年(1550年)の頃から続くお菓子処。初代彦兵衛が勢州日永の里に因んで創った銘菓「なが餅」は、長い年月の間、多くの
人に愛された素朴な味わいがします。
★三滝橋★
歌川広重が浮世絵に描いた、四日市市街の中央部を東流する三滝川にかかる橋。江戸期には東海道を往還する人馬で賑わう
土橋でした。
★三ツ谷一里塚跡★拡大は⇒クリック
旧東海道筋の橋跡北詰にある一里塚跡。日本橋から99番目になります。
★かわらずの松★拡大は⇒クリック
東海道松並木の残ったもので、四日市市には日永地区と羽津地区の二本が現存します。
★茂福の力石★拡大は⇒クリック
明治の中頃、御堂を再建するにあたり、土台石の中からこの石を選び、休憩時に体力を試さんと持ち上げ競い合ったと伝えられています。
★富田の一里塚★拡大は⇒クリック
昔は「庚申橋」と呼ばれていた小さな一里塚近くに建つ、日本橋から98番目の一里塚です。
★松寺立場跡★
日本橋から119番目の一里塚。現在は上北池公園になっています。
★縄生一里塚★
日本橋から97番目の一里塚です。
★矢場立場跡★拡大は⇒クリック
火の見櫓が印象的な立場跡。この火の見櫓は平成3年に再建されたものです。
★吉津屋見附跡★
この付近の東海道上に吉津屋門と番所があり、吉津屋見附といわれました。ここの道は四角形の三辺をまわる升形道路となっていました。
★海蔵寺★拡大は⇒クリック
木曽三大河川の工事を幕府に命ぜられた薩摩藩の義士の場所があります。
★平田靱負(ひらた ゆきえ)★拡大は⇒クリック
1753年(宝暦3年)、徳川幕府は琉球との貿易によって財力を得ていた薩摩藩を恐れて、毎年氾濫による被害が多発していた木曽三川の
分流工事を薩摩藩に命じます。(宝暦治水)工事費用は薩摩藩が全額負担、大工などの専門職人を一切雇ってはならないとしました。
露骨な弾圧政策に薩摩藩は幕府への反発を極め、このまま潰されるくらいなら一戦交えようという過激な意見まで噴出したが、平田が
「民に尽くすもまた武士の本分」と説破して工事を引き受けることとなり、平田は総奉行となります。40万両にも上る工事費用を捻出する
ため大坂豪商から借金を重ね、幕府へもたびたび専門職人の雇用許可を要請するも許可は下りず、工事のやり直しを命じられることが
しばしばありました。工事に派遣された薩摩藩士達の過労や伝染病による死亡が相次ぎ、また幕府に抗議して切腹する薩摩藩士達も続出。
(この時には、本来監視役のはずの徳川方からも、薩摩藩に同情して抗議の切腹を行う武士が二名いたほどである)。
この件に関して、平田は幕府との摩擦を回避するため、切腹した藩士たちを事故死として処理しています。薩摩藩は最終的に病死33名、
自殺者52名という多大な殉職者を出しています。分流工事は着工から1年3ヶ月ほどでようやく完成したが、その後平田は死去、享年50。
★大塚本陣跡★
桑名宿で最大かつ最高の格式を持った本陣。明治時代から料理旅館「船津屋」として営業しています。
★脇本陣駿河屋跡★
桑名に4件あった脇本陣の一つ。現在は料理旅館「山月」の一部となっています。
★七里の渡し跡/一の鳥居★拡大は⇒クリック
桑名宿と宮宿の間は江戸時代の東海道唯一の海路で、「七里の渡し」と呼ばれ、伊勢国の東の入り口にあたるため、天明年間
(1781〜1789年)に「一の鳥居」が建てられました。
★春日神社(桑名宗社)★拡大は⇒クリック
桑名に4件あった脇本陣の一つ。現在は料理旅館「山月」の一部となっています。
★水門統合管理所★拡大は⇒クリック
桑名宿と宮宿の間は江戸時代の東海道唯一の海路で、「七里の渡し」と呼ばれ、伊勢国の東の入り口にあたるため、天明年間
(1781〜1789年)に「一の鳥居」が建てられました。
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七里の渡しの名称は、移動距離が7里であったことに由来します。渡し船によって移動し、所要時間は約4時間でした。「桑名の渡し」、
「熱田の渡し」、「宮の渡し」、「間遠の渡し」などとも言われました。天候の悪化などにより、海難事故がしばしば発生する東海道の
難所の一つでした。海上を避ける迂回路としては、脇往還の佐屋街道がありました。宮宿、桑名宿は渡船場として賑わい、旅籠屋数で
それぞれ東海道における1位と2位の規模を誇りました。宮宿は人口1万人以上、旅籠数250軒という、東海道一の大宿であり、中山道
垂井宿に至る脇街道美濃路や佐屋街道との分岐点としても栄えました。一般には宮の宿と呼ばれることが多かったが、幕府や尾張藩の
公文書では「熱田宿」とも書かれています。(2020/11/29 歩行)
鳴海宿は、愛知県名古屋市緑区に存在した宿場です。鳴海宿は、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋68軒、総家数847軒、総人口3,643人規模の
宿場です。宿場の東側にある「有松絞り」が有名です。永禄3年5月19日(1560年6月12日)に尾張国知多郡桶狭間での織田信長軍と今川義元軍の
合戦がありました。2万5千人の大軍を率い尾張に侵攻した今川義元に対し、尾張の織田信長が本陣を奇襲し今川義元を討ち取った「桶狭間の古戦場」
は、この近くになります。海に面してて、西から来ても東から来ても海に成るので「成海」といういわれが名称となりました。(2020/11/29 歩行)
★七里の渡し場(熱田湊跡)★拡大は⇒クリック
名古屋城下町の玄関口で、宮から桑名までの海路「七里の渡し」の湊があった場所。人と物資の輸送で重要な湊で、尾張藩は浜御殿や船番所
などを設け、出入りを管理していました。
★宝勝院★拡大は⇒クリック
愛知県名古屋市熱田区阿弥陀如来立像(重文)を本尊とする西山浄土宗の寺院です。
★三叉の道標★拡大は⇒クリック
伝馬町の西端、東海道と美濃路(または佐屋路)との分岐点にある道標です。
★熱田神宮★拡大は⇒クリック
天照大神(あまてらすおおかみ)、素盞嗚尊(すさのおのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、宮簀媛命(みやすひめのみこと)
建稲種命(たけいなだねのみこと)の五神を祀る神社です。天皇の皇位継承の「三種の神器」の一つ、草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)が
御神体。すなわち、草薙神剣の「正体」としての天照大神をいい、いい換えれば、草薙神剣そのものが天照大神の「霊代(実体)」としての
「熱田大神」です。
★姥堂・裁断橋跡★拡大は⇒クリック
かって宮宿の東を流れる精進川に架かっていた橋を「裁断橋」と呼び、橋の袂には延文3年(1358年)建立の姥堂があります。
★笠寺観音★拡大は⇒クリック
奈良時代に禅光上人が、流木で十一面観世音菩薩像を彫り、お寺を建て安置し「小松寺」と称しました。
ある時、旅の途中で通りかかった藤原兼平(藤原基経の子、875年 - 935年)が、雨の日にこの観音像を笠で覆った娘を見初め、都へ連れ帰り
玉照姫と名付け妻としました。この縁で兼平と姫により荒廃した約200年後、現在の場所に観音像を祀る寺が建立され、藤原兼平が堂宇を再興し
「笠覆寺」(りゅうふくじ)と名付けました。
★笠寺一里塚★
名古屋市内にはかって9か所の一里塚があったといわれ、現存するのはこの一里塚のみです。日本橋から88番目となります。
★千鳥塚★拡大は⇒クリック
貞年4年(1687年)11月、寺島安信宅での歌仙興行が満尾したのを記念して建てられたもので、芭蕉の存命中に建てられた唯一の
自筆の句碑です。「星崎の闇をみよとや啼千鳥」(意訳:旅の先や、人生の先の、そんな闇を見ろと「星降る里」の千鳥が一斉に啼いている。
その闇はまた、啼く千鳥と一体であるようで、そんな闇夜を見よと啼いている。啼いている千鳥は、芭蕉自身でもあるように見える。)
★丹下町常夜燈★拡大は⇒クリック
寛政4年(1672年)篤志家の寄進により鳴海宿の西口丹下町に建てられた常夜燈。表に「秋葉大権現」、裏には「願主重因」と彫られています。
★鳴海宿本陣跡★拡大は⇒クリック
寛永10年(1633年)頃に設置され、代々西尾家が勤め、幕末には下郷(千代倉)家が引き継いでおり、宿村大概帳によれば東海道から
扇川までかなり広壮な建物でした。
★誓願寺★拡大は⇒クリック
天正元年(1573年)の創建となる浄土宗のお寺。鳴海宿本陣・千代倉家の菩提寺。境内に芭蕉供養塔、芭蕉堂があり、芭蕉の供養塔
としては最古のものです。
★鳴海宿高札場跡★拡大は⇒クリック
2009年に建物が復元。現存の高札は8つあり、名古屋市博物館に保管されています。
★鳴海城跡★拡大は⇒クリック
「根古屋城(ねごやじょう)」とも呼ばれ、14世紀末に築城。桶狭間の戦いでは、岡部元信が城に配され今川軍の起点となっていました。
★有松★拡大は⇒クリック
東海道沿いの古い町並みが残る「有松」と、戦国時代に桶狭間の戦いが行われた地である「桶狭間」が有松町の地域に該当します。
有松村は農作地が少ないこともあり、新たな産業として興されたのが有松・鳴海絞りです。これにより有松村は発展し裕福になったといます。
有松は東海道の間の宿としても知られるが実際には鳴海宿に近いため、宿場町よりは有松・鳴海絞りを製造販売する商工業の町として賑わいました。
★桶狭間古戦場★拡大は⇒クリック
永禄3年(1560年)5月13日正午頃、中嶋砦の前衛に張り出していた佐々政次、千秋四郎ら30余りの部隊は信長出陣の報に意気上がり、単独で
今川軍の前衛に攻撃を仕掛けます。しかし逆に佐々、千秋らが討ち取られてしまいます。今川義元は丸根、鷲津両砦の陥落に加え緒戦での勝利に
気を良くしました。13時頃、視界を妨げるほどの豪雨が降ります。『信長公記』には「石水混じり」と書かれているため、雹だった可能性があります。
織田軍はこれに乗じて兵を進め、義元の本隊に奇襲をかけます。今川軍の総勢は2万人であったとされるが、当地は今川方からすれば支配地では
ないためその中に兵站維持のための荷駄兵などが多分に含まれ、加えて今川方は兵を分散させていたこともあり義元を守る実兵力は5,000人から
6,000人に過ぎず、双方の戦力が拮抗した結果、大将同士が徒士立ちになって刀槍をふるう乱戦となりました。『信長公記』によれば、義元は
輿を捨て300騎の親衛隊に周りを囲まれながら騎馬で退却しようとしたが、度重なる攻撃で周囲の兵を失い、ついには信長の馬廻に追いつかれます。
義元は服部一忠を返り討ちにしたが、毛利良勝によって組み伏せられ、討ち取られました。『改正三河後風土記』によれば、義元は首を討たれる際、
毛利の左指を喰い切ったといいます。総大将である義元の戦死により今川軍は戦意を喪失し、合戦は織田軍の勝利に終わりました。
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馬市が立ったことで知られており、歌川広重の「東海道五十三次」にも「首夏馬市」として描かれています。毎年首夏(陰暦四月)、
陰暦4月25日?5月5日頃に開かれていました。また三河地方の特産品であった木綿市も開かれていました。1604年(慶長6年)頃の家康の
命によりその10年ほど後にでき当時は並木八丁と呼ばれた街道沿いの松並木は、馬をつなぐためにも使われていました。戦後も残って
いたが1959年(昭和34年)の伊勢湾台風で多くの古松が倒されてしまったため1970年(昭和45年)に幼松158本の補植が行われました。
明治時代に馬市は松並木から慈眼寺(山町桜馬場)へと移動、牛市・鯖市に移り変ったが昭和に終了しました。(2020/12/20 歩行)
★阿野の一里塚跡★拡大は⇒クリック
往時は東海道交通上の目安となっていましたが、明治維新以降、次第にその価値を失いました。今も両塚(、道の両方に塚)が現存する
例は珍しいです。その為、昭和11年に国の史跡に指定されました。
★境橋★拡大は⇒クリック
江戸期に境川に架けられ、尾張側が「板橋」三河側が「土橋」の継ぎ橋でした。度々の洪水で流されるたびに修復され、やがて
一続きの「土橋」となり、明治になって欄干付きとなりました。
★お富士松★拡大は⇒クリック
1923年(大正12年)の開業時には所在地の地名をとって「今川駅」と称していたが、1952年(昭和27年)に村名(富士松村)をとって現在の駅名に改称しました。
桶狭間の合戦の後、今川勢が東海道を西へ急ぐ旅人を織田信長のまわし者として切り殺してしまいましたが、村人たちは旅人を丁寧に葬り、そこに一本の松を
植えました。この松が富士松という地名の由来に当たります。
★一ツ木一里塚跡★拡大は⇒クリック
国道一号線の開通により当時の面影はないが、一里山という歩道橋と、右手の高台には公園があり、この辺りに一里塚があったとされます。
★総持寺★
知立神社南交差点付近にあった総持寺は明治5年(1872年)廃寺となりましたが、大正13年(1924年)になり現在地西町新川の地に再興されました。
★知立神社★拡大は⇒クリック
「池鯉鮒大明神」とも称し、景行天皇時代の創祀とされ、延喜式に記される三河国二の宮で、碧海郡六座の一つ。江戸時代の東海道の三社
(三嶋神社、熱田神宮)の一つで「まむし除け」として信仰を集めました。
★知立城跡★拡大は⇒クリック
知立神社の神主だった永見氏が築いた居館が始まりとされています。桶狭間合戦の時は、今川方の城でしたが義元を討ち取り
勢いづいた織田勢の攻撃により落城しました。
★池鯉鮒宿本陣跡★拡大は⇒クリック
当初は峯家(杉屋本陣)が勤め、寛文2年(1662年)より永田家(永田本陣)が引き継ぎました。敷地約2899坪、建屋300坪の立派な
本陣屋敷です。
★池鯉鮒宿問屋場跡★拡大は⇒クリック
建物は、昭和46年に取り壊され、玄関脇にあった嘉永年間(1848年〜54年)建立の常夜燈が知立神社境内に移されています。
★御手洗池跡★
池鯉鮒宿の東、慈眼寺一帯にあり、殺生禁断の大池で鯉や鮒が多くいました。このことが、「池鯉鮒」の語源とされてます。
★松並木★拡大は⇒クリック
かっての東海道は池鯉鮒宿を出れば松に覆われる並木道、並木八丁(町)と呼ぶ見事な松並木でした。今も約500mに渡って残っています。
★馬市跡碑・万葉歌碑★拡大は⇒クリック
この地の東外れで馬市が開かれ、各地から馬が集まり大いに賑わいました。また大宝2年(702年)持統天皇が並木の西側の地、引馬野を
詠んだ歌碑が刻まれています。
★来迎寺一里塚跡★拡大は⇒クリック
猿渡川右岸の来迎寺の集落を通る旧東海道の左右に設けられた一里塚。北塚は高さ3.5m、大きさ9m四方の規模で、一部崩れては
いるが、原形をよく保っています。
★元禄の道標(無量寿寺道標)★
八橋町にある在原業平ゆかりの無量寿寺への道標は、元禄12年(1699年)に建立。「従是五丁北 八橋 業平作観音在」「八橋山
無量寺」と刻まれています。
★永安寺・雲龍の松★拡大は⇒クリック
延宝5年(1677年)に貧しい村人のために助郷役の免除を願い出て刑死したと伝えられる大浜茶屋の庄屋・柴田助太夫の霊を祀る寺。
クロマツは樹齢300年ほどと推定されます。
★尾崎一里塚跡★拡大は⇒クリック
日本橋から83番目の一里塚です。
★熊野神社/旧鎌倉街道★拡大は⇒クリック
708年創建の神社です。鎌倉に幕府が開かれると、京都と鎌倉の間に鎌倉街道が定められ、宿宿が設置されました。ここも
旧鎌倉街道と伝えられており、目印の松が残っています。
★第一岡崎海軍航空隊★拡大は⇒クリック
ミッドウェー海戦での大損失を補填すべく、実施部隊の駐留地として、愛知県碧海郡矢作町・上郷村(現岡崎市・豊田市・安城市)の
農地を収用し、岡崎飛行場を造成しました。今の三菱自動車岡崎工場の前の道路は改築された滑走路の名残です。
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岡崎宿(おかざきしゅく、おかざきじゅく)は、東海道五十三次の38番目の宿場です。現在の愛知県岡崎市中心部。岡崎城下を通る東海道は曲折の
多さで知られ、岡崎二十七曲りと呼ばれました。石高は五万石しかなくとも徳川幕府の下では神君生誕の三河国岡崎城(築城は三河西郷氏の西郷稠頼)
の城下町を背景に宿場町の規模も駿河国府中宿(静岡県静岡市葵区)に次いで大きいです。(2021/6/30 歩行)
★誓願寺・十王堂★拡大は⇒クリック
この地にあった池で溺死した慶念の冥福祈り、長徳3年(997年)恵心僧都が堂を建て千体地蔵菩薩を造り安置した寺院。境内には
浄瑠璃姫供養塔や義経の「薄墨の笛」を安置。
★矢作神社★拡大は⇒クリック
景行天皇の時代、日本武尊の命により矢作部達が竹で1万本の矢を作り、服を計ち果たしたとされ、矢竹の一部がここの矢竹やぶであり、
この故事により矢作神社と呼ばれました。
★小六・日吉丸出合之像★拡大は⇒クリック
矢作橋で寝ていた日吉丸(幼少期の豊臣秀吉)と通りかかった小六正勝(後の蜂須賀小六)という野武士が出逢い、意気投合したという太閤記による創作。
★まるや、カクキュー /八丁味噌★拡大は⇒クリック
江戸時代初期から続く濃厚な豆味噌。「カクキュー」「まるや」は300年以上続く老舗です。岡崎城より約八丁離れた八丁村(現八帖町)で製造したことから
「八丁味噌」と名が付きました。
★松葉惣門跡★
岡崎城への西門としてあり、ここにはかつて松葉川という川が流れ、橋が架けられていたが、現在は石柱が往時を偲ばれます。
★岡崎城跡・岡崎公園★拡大は⇒クリック
室町時代、西郷弾正左衛門頼嗣(梱頼)が現在の岡崎城の位置にはじめて城を築き、のちに家康の祖父である松平清康が入城し本格的な岡崎城を構えました。
★籠田惣門跡★拡大は⇒クリック
岡崎城への東門。往時岡崎城の周囲は川の流れを取り入れた堀で囲われており、籠田抱門は現在の籠田公園前の西岸寺あたりにあったとされています。
★御馳走屋敷跡★
御馳走とは接待を意味する言葉で、この屋敷は公用の役入などをもてなす、いわば岡崎藩の迎賓館的な役割を持っていました。
★岡崎宿西本陣★
西本陣・東本陣ともいわれた伝馬の本陣は、正徳3年(1713年) 頃は中根甚太郎、浜島久右衛門の2軒だったが、のちに本陣3軒と脇本陣3軒と移り代わりました。
★備前屋★
天明2年(1782 年)創業以来、岡崎宿で菓子舗を営み現在で八代目となる御菓子処。代表銘菓は「あわ雪」。
★秋葉山常夜燈★拡大は⇒クリック
市内に残るもっとも大きな常夜燈。火防の神である秋葉大権現への信仰が盛んだったことを伺わせる。
★根石原観音堂★拡大は⇒クリック
曹洞宗根石寺。本尊の聖観世音菩薩像は行基菩薩の作といわれ、家康の長男信康公も初陣の折この観音像を祈願し軍功を上げて以来、開運の守り
本尊として崇めていました。
★二十七曲碑・冠木門★拡大は⇒クリック
東海道の中でも屈指の規模を誇る岡崎宿は、欠町から矢作橋にかけ、多くの曲がり角があったことから「岡崎二十七曲り」と呼ばれていました。
★太平一里塚跡★拡大は⇒クリック
日本橋から80番目の一里塚。北側の一里塚は昭和3年に道路改修の際に破壊されており、跡地には常夜燈が建っています。
★大岡越前守陣屋跡★拡大は⇒クリック
寛延元年(1748年)、大岡越前守忠相が寺社奉行兼奏者番として1万石の在府大名となった際、東海道が通過する領地大平村(現在の大平町西上野)に
設けた陣屋の跡。
★岡崎源氏蛍発祥地の碑・芭蕉句碑★
この辺りでは昭和の初期頃まで源氏蛍の群舞が見られました。旧東海道筋にあった石碑は、現在国道一号線のほたる橋東の交差点近くに移転。
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国道1号沿いには道の駅藤川宿が整備されています。近くの旧東海道には1kmほどの松並木があります。松並木やむらさき麦等と共に
藤川宿は岡崎観光きらり百選に選定されています。(2021/7/18 歩行)
関川神社には、「夏の月、御油より出でて赤坂や」という松尾芭蕉の句碑がありますが、この句は地理的に極めて近い両者の関係を詠んだ
ものとされています。また、松並木は今でも現存しています。赤坂宿には、享保18年(1733年)時点で83軒の旅籠があったが、大橋屋は
その中でも大旅籠に属していました。間口は9間、奥行は23間ほどで。ちなみに歌川広重が描いた『東海道五十三次・赤坂』とは、この
大橋屋の中庭を描いたものです。(2020/7/18 歩行)
御油宿(ごゆしゅく、ごゆじゅく)は、東海道五十三次の35番目の宿場で、現在の愛知県豊川市御油町に所在します。江戸風俗史にある尻尾の
短い猫は御油猫と呼ばれ流行したが、御油から持ち込まれ、御油・赤坂の宿場駅間の短さを尻尾に例えて呼ばれました。(2021/7/18 歩行)
★吉良道道標★拡大は⇒クリック
藤川宿の西端で東海道は南西方向に分かれ、土呂(現・岡崎市福岡町)、西尾(現・西尾市)、吉良(現・幡豆郡吉良町)方面へ出る道があり、
この道を「吉良道」と呼んでいます。
★藤川一里塚跡★
日本橋から79番目の一里塚。当時は街道の左右に塚を作り、種を植えていたが、南側は天保年間(1830年~)頃、北側も昭和初期には
枯れてなくなっています。
★十王堂・芭蕉句碑★拡大は⇒クリック
死者の魂が行きつく冥土で亡者の罪を裁く10人の判官を「王」として祀る堂。境内の句碑には「ここも三河 むらさき麦の かきつはた」と
この地の名物が詠まれています。
★藤川宿本陣・脇本陣跡★拡大は⇒クリック
本陣は藤川宿の中心地・宇中町北に元々2軒あり、退転を繰り返し、江戸時代後期には森川久左衛門が勤めた。脇本陣は大西喜太夫が営み、
「橘屋」と呼ばれていました。
★藤川宿高札場跡★
藤川宿のもので現在保存されている高札は6枚あり、いずれも岡崎市文化財に指定され、その内3枚は資料館に掲示してあります。
★明星院★拡大は⇒クリック
弘法山明星院。本尊は不動明王立像で「片目の不動尊」と呼ばれ、永禄5年(1562年)扇子山の戦いで敗走する家康をかばい、矢を受け片目と
なったと伝えられています。
★藤川宿東棒鼻跡★拡大は⇒クリック
「棒鼻」とは、宿場の出入り口のことで、東にあるため「東棒鼻」と呼ばれた。歌川広重が東海道五十三次の藤川「棒鼻ノ図」に描いたことで、
ここに棒鼻が再現されました。
★本宿一里塚★拡大は⇒クリック
日本橋から78番目の一里塚。両塚とも現存せず、本宿史跡保存会により「東海道一里塚跡」碑が建てられています。
★法蔵寺★拡大は⇒クリック
大宝元年(701年)、行基により開基されたと伝わる徳川家康ゆかりのお寺で、参道入口には家康御手植えの御草紙掛松があり、境内には
新選組局長近藤勇の首塚や東照宮もあります。
★長沢一里塚跡★拡大は⇒クリック
日本橋から77番目の一里塚。音羽川に架かる土橋の北詰あたりにあったとされ、現在は「一里塚跡」の標柱が長沢一里塚跡を示しています。
★赤坂宿問屋場跡★拡大は⇒クリック
慶長5年(1600年)に徳川幕府の命令によって設けられ、間口六間(10.9m)、奥行三十間 (56.4m)の瓦葺だったとされ、近くには高札場が復元されています。
★関川神社・芭蕉句碑★拡大は⇒クリック
神社の楠は町内一の巨木で、推定樹齢約800年といわれる。境内の芭蕉句碑「夏の月御油より出でて、赤坂や」は、夏の夜の短さと、赤坂と
御油間の距離の短さを詠ったものです。
★御油の松並木★拡大は⇒クリック
慶長9年(1604年)、家康が植樹させたもので、現存する松並木では昔日の姿を最もよく残すものとして、昭和19年に国の天然記念物に指定されました。
★東林寺(ごゆ観音)★拡大は⇒クリック
永享年間(1429年~1441年)、龍月日蔵和尚によって創建され、寺号を「洞元庵」とした。御油宿は遊興の宿場として知られ、境内には非業の死を
遂げた飯盛女の墓があります。
★御油宿本陣跡★拡大は⇒クリック
鈴木半左衛門家が勤めた本陣は、天保14年(1843年)に最多時で4軒あった本陣のうち最も格式の高い筆頭本陣だったといわれています。
★御油の松並木資料館★拡大は⇒クリック
音羽川河畔、新御油橋西側にあり、御油の松並木と御油宿に関する資料を展示しています。
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征夷大将軍の徳川将軍家の老中・大坂城代・京都所司代格の大名の吉田藩の所領であり、吉田城城下町と湊町(吉田湊、船町)を合わせた
宿場町でした。表町12町と裏町12町の計24町で宿を構成されており、本陣が2軒、脇本陣が1軒、旅籠は65軒ありました(1802年)。戸数は
約1,000軒で人口は5,000から7,000人ほどででした。本陣のあった札木町(豊橋市札木町)は吉田城大手門のそばにあり、また人馬継立の
問屋場もあった(現在のNTT西日本三河支店のあたり)ため、中心として賑わいました。(2021/3/13 歩行)
★御油宿問屋場・高札場跡★拡大は⇒クリック
御油の高札場は曲尺手角にあり、御油保育園の敷地に高札場跡の看板が立っています。
★姫街道追分★拡大は⇒クリック
「姫街道」は御油宿と見附宿までを浜名湖の北側を迂回して結んだ脇街道。宝永4年(1707年)の地震の影響で東海道は海路を進むことと
なったが、女性は海路を避け陸路を好みました。
★御油一里塚★
蒲郡信用金庫国府支店の植え込みの中に日本橋からは76番目、京から50番目の一里塚の碑があります。
★大社神社★拡大は⇒クリック
天元・永観年間(978~985年)、大江定基が三河の国司として在任した時、三河國の安泰を祈念して出雲大社より勧請したという古社。
★伊奈一里塚★拡大は⇒クリック
山本太鼓店の正面に伊奈(伊ノ奈)一里塚の碑が立つ。日本橋から75番目の一里塚。
★伊奈立場茶屋加藤家跡★拡大は⇒クリック
吉田宿との中間に立場茶屋が設けられ、加藤家では「良香散」という有名な腹薬があります。加藤家の生まれの俳人・鳥巣は芭蕉とも親交があり、二人の句碑が
あります。
★菟足神社★拡大は⇒クリック
穂の国(現在の東三河)の国造であった菟上足尼命(うなかみすくねのみこと)を祭神として、白鳳15年(686年)に創立。没後、平井の柏木浜に祀られた後、
当地に遷座されました。
★子だが橋碑★拡大は⇒クリック
約一千年前菟足神社には人身御供があり、春の大祭に若い女性を「子だが止むを得ん」と生贄にして神に奉る習慣があったと伝えられ、「子だが橋と呼ぶ
ようになりました。
★下地一里塚★拡大は⇒クリック
日本橋から74番目の一里塚
★豊川稲荷遥拝所★拡大は⇒クリック
遙拝所の石碑の手前には、道標になっている常夜燈が立ち、安政2年(1855年)の年号で、「左吉田町 右御油道」と刻まれています。
★吉田大橋(豊橋)・船着場跡★拡大は⇒クリック
豊橋は幕府直轄の五大橋のひとつとされ、現在の位置の73m下流に架けられていました。江戸時代は「吉田大橋」と呼ばれ、矢作橋、瀬田唐橋と共に
東海道の三大大橋といわれています。
★吉田城西惣門跡★拡大は⇒クリック
当時、物門の左手には番所があり、12畳の上番所、8畳の下番所、4坪の勝手、駒寄せの空地17坪がありました。
★吉田宿本陣跡★拡大は⇒クリック
この辺りの札木町一帯が吉田宿の中心で、当時最も賑わっていました。現在は清洲本陣跡にうなぎ懐石の老舗「丸よ」が店を構えています。
★吉田城東惣門跡・秋葉常夜燈★拡大は⇒クリック
東惣門跡は治町の東側、下仁町の吉田城物堀西で東海道にまたがって南向きに建てられていました。常夜燈は文化2年(1805年)、東海道と本坂通の分岐点に
立てられていました。
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1601年(慶長6年)の東海道設定当初から、三河国渥美郡二川村と大岩村の2村で宿場として人馬継立業務を担当していました。しかし小さな村であり、
また1.3kmほど離れていたため、しばらくすると負担に耐えられなくなりました。江戸幕府は1644年(正保元年)に二川村を西に、大岩村を東に移動させ、
二川宿と加宿大岩町として再構成させます。江戸の日本橋より西に72里3町 (単位)(約283km)に位置し、東の白須賀宿とは1里17町(約5.8km)、西の
吉田宿とは1里20町(約6.1km)離れており、町並は12町16間(約1.3km)の長さがありました(二川宿は6町36間、大岩町は5町40間)。二川宿には本陣1軒、
脇本陣1軒、旅籠が約30軒ほどあり大岩町は宿ではなく町であったため旅籠は設置されませんでした。(2021/4/24 歩行)
遠江国最西端で、且つ、現在の47都道府県でも静岡県最西端の宿場町です。西の加宿境宿で売られていた柏餅は、白須賀宿の名物として有名でした。
元々は海岸近くにあったが、宝永4年(1707年)に発生した宝永地震と津波により大きな被害を受けたため、その後潮見坂の上の高台にある現在地に
移されました。天保年間の記録では旅籠が27軒と、宿場としては中規模でした。宿場が廃止された後の1889年に白須賀町が成立、1955年に湖西町
(現在の湖西市)に編入されました。明治の東海道本線敷設では、東の新居宿(静岡県湖西市新居町)から白須賀宿へ至る潮見坂の勾配が蒸気機関車
運転の障害となり、浜名湖沿岸の鷲津経由となったため、街の発展はなく、現在も一部に当時の家並みや面影を残しています。(2021/4/24 歩行)
★飯村一里塚跡★拡大は⇒クリック
殿田橋交差点近くに石碑が立つ。日本橋から73番目の一里塚。
★岩屋観音★
天平2年(730年)、行基がこの地に赴いたとき、その風景に見せられて千手観音像を刻んで岩窟に安置したのが起源とされます。以来、東海道を
往来する旅人たちの信仰を集めました。
★火打坂★
大蔵山東麓を通る旧東海道のこの坂の名は火打石を多く採ることができたことに由来します。坂途中の路傍には「尉と姥石」と呼ばれた
2つの大石がありました。
★二川宿本陣跡・旅籠清明屋★拡大は⇒クリック
本陣は江戸時代初期より後藤家が勤め、紅林家、馬場家と引き継がれました。現在は江戸後期から明治まで倉橋家が営んだ旅籠清明屋の建物と
ともに資料館として一般公開されています。
★東駒屋★
商家「駒屋」の田村家は、元禄4年(1691年)に遠江国敷知郡中之郷村(現在の静岡県湖西市)から二川宿へ移り、初めは医師を、後に米穀商・質屋
を営みました。
★二川一里塚★拡大は⇒クリック
日本橋から72番目の一里塚。二川宿の東入口すぐのところに石碑が残っています。
★細谷一里塚跡★拡大は⇒クリック
日本橋から71番目、京から55番目の一里塚。一里塚の面影を残すこんもりとした小山と御堂が残っています。「一里山の一里塚」として豊橋市の史跡に指定。
★夏目護麿邸跡・加納諸平生誕跡★拡大は⇒クリック
護麿は白須賀出身の国学者・歌人。国学を内山真龍に学び、後に本居宣長の門下に入り、国学の普及に努めました。長男の諸平は紀州藩医の養子となり、
著書「腹王集」7巻を出版しました。
★白須賀宿本陣・脇本陣跡★拡大は⇒クリック
ここの本陣は大村庄左衛門宅跡で、規模が建坪183坪、畳敷231畳、板敷51畳と大きなものでした。続いて脇本陣跡碑、問屋場跡と並び、この付近が宿場で
最も賑わっていました。
★曲尺手★
曲尺手とは直角に曲げられている道のことで、軍事的な役割を持つ以外に、大名行列同士が道中でかち合わないようにする役割もありました。
★潮見坂公園跡・潮見坂上の石碑群★拡大は⇒クリック
かつて武田勝頼を滅ぼした信長を、帰り道中でもてなすために家康が茶亭を新築した場所。明治天皇が江戸へ行幸する途中の休憩場所でもあり、
石碑群の中にはその記念碑もあります。
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平安から中世までは、浜名川沿いの浜名橋周辺の橋本宿が繁栄していましたが、明応地震・津波の被害により壊滅し、今切・新居地区へ移転します。
江戸時代には、浜名湖今切口の対岸にある舞坂宿との間に今切の渡しがおかれ、東海道の要衝のひとつとして今切関所(新居関所)がおかれていました。
現在、浜名湖の埋立てのため、新居関所及び今切口周辺の地形が当時とは大きく変化しています。新居関所は、「新居関跡(あらいのせきあと)」
として、国の特別史跡に指定されました。隣接地に新居関所史料館があります。(2021/11/2 歩行)
北に新川があり、西側に浜名湖(今切口)に面し、南に遠州灘(太平洋)があります。現在の静岡県浜松市西区舞阪町舞阪に相当します。尚、旧来江戸時代の
地名は「舞坂」であったが、現在は「舞阪」です。中世、遠州灘では、明応8年(1498年)8月25日に明応地震が起こり、遠州灘沿岸は大津波に
襲われました。浜名湖開口部は沈下し、今切口が決壊して海水が湖に流入し、塩水湖となりました。「明応7年8月の地震津波以前の湖口」の絵図によると
舞坂と荒井(現新居)は陸続きで、舞坂は当時「前沢」と呼ばれていたといいます。(2021/11/2 歩行)
★潮見坂★拡大は⇒クリック
京からの道程では、はじめて太平洋や富士山の見える場所として、多くの旅人の詩情を誘った街道一の景勝地として数々の紀行文などにその風景が記されています。
★蔵法寺★拡大は⇒クリック
奈良から平安時代に移る頃、前身の寺が建立。現在の蔵法寺は慶長3年(1598年)開山琢翁宗a和尚により曹洞宗の寺として開かれ、以来、法灯の絶えることなく現在に至ります。
★白須賀一里塚跡・白須賀宿高札場跡★拡大は⇒クリック
日本橋から70番目の一里塚。この辺りでは「一里山」と呼び、石碑にも「一里山旧址」と彫られています。白須賀宿の高札場は、ここ元宿と東長谷、加宿である境宿村に設置されました。
★浜名旧街道★拡大は⇒クリック
ここからが「浜名旧街道」。道の南側に松並木がつづきます。この「旧東海道」、大正時代からは「国道1号線」として重要な道路として存在していました。
しかし、江戸時代からあった松並木は、昭和50年代に発生した全国的な松くい虫の被害によって、この街道の松も全滅しました。そこで、昔の面影を再現すべく昭和62年に
植栽・復元したものだそうです。
★藤原為家★拡大は⇒クリック
「風わたる 濱名の橋の夕しほに さされてのぼる あまの釣舟 前大納言為家」藤原為家(1198〜1275)鎌倉中期の歌人で定家の二男。初め朝廷に仕え、父の没後家系と
学統を継いだ。承久の乱後、「千首和歌」で歌人として認められ、「続後撰和歌集」 「続古今和歌集」の勅撰集を始め、多くの私家集を編んだ。歌風は温和、平淡。
この歌は「続古今和歌集」巻第十九に収められている。
★風炉の井★拡大は⇒クリック
深さ2m、口径最大1.8mある石積井戸は、建久元年(1190年)、源頼朝が上途中の橋本宿に滞在した際、この井戸水を茶の湯に用いたとされます。昭和54年に町の史跡に指定。
★新居棒鼻跡★拡大は⇒クリック
新居宿の西境で、一度に大勢の人が通行できないように土塁が突き出て枡形をなしていました。
★新居一里塚跡★拡大は⇒クリック
日本橋から69番目の一里塚。ここの塚には東に榎、西に松が植えてありました。
★新居宿寄馬跡★拡大は⇒クリック
宿場には人馬を提供する義務があり、常に人足と馬を用意していたが、交通量が多い時に不足を補うため、近在の村々から人馬を寄せ集めた際の溜り場になったところです。
★新居宿本陣跡★拡大は⇒クリック
新居宿には「定田弥五助本陣」(188坪)、「飯田武兵衛本陣」(196坪)、「正田八郎兵衛本陣」(193坪)の三軒の本陣がありました。いずれも当時の遺構は残っていません。
★旅籠紀伊国屋★拡大は⇒クリック
徳川御三家のひとつ紀州藩の御用宿を務めためた縁により正徳6年(1716年) 紀伊国屋の屋号を掲げ、以後宿内最大の旅籠として営業を続けました。
★新居関所跡(今切関所)★拡大は⇒クリック
慶長5年(1600年)、家康により創設。入鉄砲と出女に対し厳しく取り締まり、約100年間、幕府直轄として最高の警備体制が敷かれていました。昭和30年に国の特別史跡に指定。
★井上通女(いのうえ つうじょ)★
江戸時代の学者である貝原益軒は、平安時代の有智子内親王以来の学富才優と絶賛しました。通女を顕彰して、丸亀市立城西小学校の校内には銅像が建てられています。
通女の執筆した『東海日記』『江戸日記』『帰家日記』は、三日記と呼ばれ、「江戸文学の粋」と称されました。この三日記は、その後、丸亀市により150万円で購入され
、2014年1月から3月まで期間限定で公開されたこともあります。『東海日記』に記された新居関所の出来事で、通行許可がもらえず、大坂に出した使いの者が帰ってくる
のを待っていたときの心情を詠った和歌と漢詩があり、漢詩は平仄押韻すべてきちんと規則に沿っています。この和歌の一首は、静岡県湖西市新居町にある新居関跡の
石碑に刻まれています。
★舞坂雁木跡★拡大は⇒クリック
江戸時代、舞坂から新居宿までの交通は渡船で、舞坂側の渡船場を「雁木」といい、荷物用の渡荷場、旅人が利用する主要渡船場の本雁木、大名や幕府役人が使う北雁木がありました。
★舞坂宿本陣跡★拡大は⇒クリック
舞坂宿は宮崎伝左衛門が本陣職を、源馬徳右衛門が相本陣を勤めました。現在は石柱が当時の面影を伝えています。
★舞坂宿脇本陣跡★拡大は⇒クリック
相本陣の向側に脇本陣(茗荷屋 堀江清兵衛)があり、建物は主屋・繋ぎ棟・ 書院棟で構成され、現構で間口五間・奥行十五間ありました。
★舞坂一里塚跡・舞坂東見附★拡大は⇒クリック
日本橋から68番目の一里塚。江戸時代中期に構築された見附は、舞坂宿の東のはずれに位置し、石垣の横に番人が立ち、人馬の出入りの監視と、治安の維持に当たりました。
★長池の松並木★拡大は⇒クリック
かつては1420本植えられていたが、現在は700mの区間に340本の松が残る松並木。街道の右側には十二支の彫り物、左側には東海道各宿場の浮世絵レリーフが置かれています。
★篠塚一里塚跡★拡大は⇒クリック
かつての塚木は右(北) 榎、左(南)松でした。日本橋から67番目の一里塚。
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---浜松宿(はままつしゅく、はままつじゅく)旧名「濱松宿」 は旧東海道の宿場で、東海道五十三次の江戸から数えて29番目、 京から数えて25番目にあたります。また実距離では、江戸から京との中間にあたり、名実共に関東関西の中間地域でした。 遠江国敷知郡(ふちごおり)の中心にあたり、司法行政を浜松藩が取り仕切っていました。現在の静岡県浜松市の中心部にあたり、 浜松城の城下町として天保年間には本陣が6軒、旅籠が94軒もあったとされています、遠江国・駿河国を通じて最大の宿場でした。 天竜川の右岸にもあたるが、洪水の度に川の流れが変わったこともあり、現在の川岸からは6kmほど離れています。(2021/6/26 歩行)
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---もともとは10世紀に遠江国の国府が置かれた土地であるが、鎌倉期には国衙と守護所が置かれ、中世の東海道屈指の規模を持つ 宿場町となりました。16世紀頃には町人による自治も行われていたが、藩政期に入ると自治権は失われ、単なる宿場町の1つとなり ました。天竜川の左岸にあたるが、大井川と違って水深があったため主に船が使われており、大井川ほどの難所ではなかったようです。 しかし川止めのときは島田宿などと同様に、足止めされた人々で賑わったとされます。また遠江国分寺や見附天神の門前町であり、 本坂通の分岐点でもありました。(2021/7/10 歩行)
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---袋井宿(ふくろいしゅく、ふくろいじゅく) は旧東海道の宿場で、東海道五十三次の宿場の数では江戸から数えても京から 数えても27番目で中間点にあたります。他の宿場より少し遅れて元和2年(1616年)までに整備されました。現在の静岡県袋井市中心部にあたります。 周辺に遠州三山をはじめ歴史ある寺や神社が点在し、それらのいわば門前町の形で栄えました。(2021/10/16 歩行)
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---現在の静岡県掛川市の中心部であり、山内一豊が改修して棲んだことで知られる掛川城の城下町です。また、駿河湾沿岸の相良(現在の牧之原市) から秋葉山(現在の浜松市天竜区春野町)を経て、信濃国へ通じる塩の道が交差している宿場でもありました。塩の道は、江戸時代以降は秋葉参詣の ルートの一つとして秋葉街道とも呼ばれ、歌川広重の「東海道五十三次」には秋葉街道が分岐する大池橋より仰いだ秋葉山と参詣者の姿が描かれ ました。現在でも「秋葉通り」「秋葉路」などの地名があります。(2021/10/16 歩行)
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---現在の静岡県掛川市日坂に当たり、東海道の三大難所(峠)の一つとされる小夜の中山の西麓に位置します。宿場の西の入口には、事任八幡宮を擁します。 古くは入坂、西坂、新坂など様々な字で記されており、大井川の畔の金谷宿と、塩の道と交差し城下町でもある掛川宿との間にあって、規模も小さかったが、 江戸時代に入って正式に五十三次に加えられて整備され、字も日坂に統一されました。明治時代に入り、東海道本線が小夜の中山を迂回するためにこの宿場を 通らず建設されたため、衰退を余儀なくされたが、戦後国道1号線は小夜の中山の北側の沢を開削する新ルートを拓き、この宿場を経由して整備されました。 1955年、小笠郡日坂村が掛川市に合併し、それ以降は掛川市の大字となり現在に至っています。(2021/10/2 歩行)
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---現在の静岡県島田市金谷。大井川の右岸(京都側)にあり、牧之原台地が迫る狭隘な場所であるが、増水で大井川の川越が禁止されると、 江戸へ下る旅客が足止めされ、島田宿と同様、さながら江戸のような賑わいをみせました。(2021/10/2 歩行)
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---現在の静岡県島田市。大井川の左岸(江戸側)にあるため、増水で大井川の川越が禁止されると、お伊勢詣りなどの江戸から京都方面へ 上る旅客が足止めされ、さながら江戸のような賑わいをみせました。長雨により、滞在費と遊興費に所持金を使い果たすことも珍しく ありませんでした。そのため、所持金が無くなったり宿が満員になった際に家を借りた名残で、島田の旧・東海道沿いには御仮屋という 地名があります。「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ 大井川」と詠われた、東海道の難所の一つです。かつての川越し宿場は 「島田宿大井川川越遺跡」として国の史跡となっています。大井川上流から切り出された木材の集積地としても発展。元禄期には運河が 開削され、栃山川、木屋川を経て、和田湊(現在の焼津漁港南部)から江戸に運ばれました。
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---歴代の城主が江戸幕府の要職を務めた田中城の城下町として、また塩の産地であった相良に至る田沼街道への分岐点として、最盛期には旅籠が37軒あり、 商業地としても栄えました。明治時代に入り東海道本線が建設される際、当初は宇津ノ谷峠 - 藤枝宿 - 島田宿というルートとなる予定であったが、 地形が険しい上に遠回りになることから大崩海岸 - 藤枝宿 - 島田宿へと変更され、最終的には大崩 - 焼津 - 島田宿がルートとして選ばれることに なりました。このため、1889年(明治22年)に開業した藤枝駅は宿場町から3キロメートルほど離れた位置に設けられました。なお、これに関して蒸気 機関車の煙や火の粉を心配した住民が線路の建設を拒んだ(鉄道忌避伝説)という俗説があるが、当時の新聞記事や県知事への上申書には藤枝宿で 積極的な誘致運動があったということしか記録されておらず、反対運動があったという証拠はまったく発見されていません。
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---隣の鞠子宿(静岡市)との間の旧国道1号(静岡県道208号藤枝静岡線)沿いや宇津ノ谷地区には、昔の街並が残ります。 1836年(天保7年)再建の旅籠・柏屋(かしばや)は、国の登録有形文化財に登録されています。また「岡部宿本陣址」(岡部宿内野本陣史跡広場) および内谷地区に残る「旧東海道の松並木」は藤枝市の史跡に指定されています。また2020年(令和2年)6月19日には、岡部宿およびその周辺の 文化財群である「坂下地蔵堂」「蘿径記碑(らけいきひ)」「十石坂観音堂」「大旅籠柏屋」「岡部宿本陣址」「東海道松並木(内谷地区)」が、 文化庁の文化財保護制度「日本遺産」のストーリー『日本初「旅ブーム」を起こした弥次さん喜多さん、駿州の旅〜滑稽本と浮世絵が描く東海道旅の ガイドブック(道中記)〜』の構成文化財の1つに認定されました。
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---東海道中でもっとも小さい宿場で、天保14年(1843年)の記録によると、家の数は211軒、旅籠は24軒であったといいます。東海道伝馬制の制定により、 丸子が宿場町となったのは、関ヶ原の戦いの翌年の慶長6年(1601年)で、江戸から数えて20番目の宿場町でした。となりの岡部宿(藤枝市)との間の 宇津ノ谷(静岡市駿河区)には昔の街並が、付近には源氏・今川氏・徳川氏ゆかりの史跡が残ります。安倍川の丸子橋近くには、高札場の跡があり、 宿場町に現存する高札のレプリカが立っています。名物はとろろ汁です。広重の鞠子宿の浮世絵はクロード・モネの連作「積みわら」に構図や グラデーションの使い方など影響を与えました。また、松尾芭蕉も「梅若葉丸子の宿のとろろ汁」という句を詠んでいる(「猿蓑」)ほか、十返舎一九は 『東海道中膝栗毛』の丸子のシーンでとろろ汁を作中に取り入れています。
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---府中宿(ふちゅうしゅく)は、東海道五十三次の19番目の宿場である。街は城下町である駿府の一角を成していました。 現在の行政区画では静岡市葵区に属します。徳川家康のお膝元であり、旧東海道はJR静岡駅の北側に位置する駿府城との間を抜け、安倍川に至ります。 川の手前の西見付がかつてあった弥勒辺りには、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」に登場する安倍川餅を売る売店が存在します。
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---駿河湾に注ぐ巴川の河口付近に発達した宿場町です。江戸時代以前の戦国時代には、武田氏家臣馬場信春により江尻城が築かれ、城下町化して栄え始めた といわれます。清水港に近く、江戸時代には江戸への物流拠点となりました。また、清水次郎長所縁の地であり、次郎長の生家や菩提寺(梅蔭禅寺)、 次郎長の船宿「末廣」などが残っています。
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---興津という地名は、興津宗像神社祭神の1柱・興津島姫命(おきつしまひめのみこと)がこの地に住居を定めたことからといわれています。また、 平安末期から興津氏が居住していたのでその名を地名にしたとの説もあります。古代での呼び名は奥津 (おくつ) 、息津(おきつ)、沖津 (おきつ) ともいわれていました。現在、興津と呼ばれる区域は1961年に当時の清水市と合併した旧興津町と重なります。風光明媚で知られた清見潟は、古代、 清見関(きよみがせき)と息津(おきつ)駅が置かれました。この場合の息津は現在の興津と異なり、西寄りの横砂あたりではないかと言われて います。江戸時代には興津宿として東海道五十三次の17番目の宿場町として発展し、明治以降は鉄道が開通したことにより、西園寺公望などの 元勲の別荘が建ち、避寒地として全国的にも知られていました。現在、清見潟の海岸寄りは埋め立てられ、清水港の興津埠頭となっています。
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---本陣跡が整備され、由比本陣公園となっています。東海道名主の館(小池家住宅)は、1998年(平成10年)10月9日に、国の登録有形文化財(建造物)に 登録されました。また、「名主の館」を含む「由比宿」として、2020年(令和2年)6月19日に文化庁が認定する日本遺産『日本初「旅ブーム」を起こした 弥次さん喜多さん、駿州の旅〜滑稽本と浮世絵が描く東海道旅のガイドブック(道中記)〜』の構成文化財に認定されました。
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---吉原宿から富士川を渡って最初に到達する宿場です。降雪の少ない東海地方であるが、歌川広重の浮世絵『東海道五十三次』では雪景色で描かれており、 1つの謎とされています。
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---吉原宿(よしわらしゅく)は、東海道五十三次の14番目の宿場です。現在の静岡県富士市に位置します。吉原宿は当初現在のJR吉原駅付近にあった (元吉原)が、1639年(寛永16年)の高潮により壊滅的な被害を受けたことから、再発を防ぐため内陸部の現在の富士市依田原付近に移転しました (中吉原、現在の八代町付近)。しかし1680年(延宝8年)8月6日の高潮により再度壊滅的な被害を受け、更に内陸部の現在の吉原本町(吉原商店街)に 移転しました。このため原宿 - 吉原宿間で海沿いを通っていた東海道は吉原宿の手前で海から離れ、北側の内陸部に大きく湾曲する事になり、 それまで(江戸から京に向かった場合)右手に見えていた富士山が左手に見えることから、"左富士"と呼ばれる景勝地となりました。往時は広重の絵に あるような松並木であったが、現在は1本の松の木が残るのみです。
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---宿場として整備される以前は浮島原と呼ばれ、木曾義仲討伐のために上洛する源義経が大規模な馬揃えを行ったことで知られていました。
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---本陣3、脇本陣1、旅篭屋55、総戸数1234を数えた宿場町です。
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---本陣2、旅篭数74。箱根峠より西側の最初の宿場町であると同時に三嶋大社の門前町でもあり、戦国時代には箱根峠と三島の間に山中城が 築かれていました。江戸幕府の天領であり、宝暦9年(1759年)までは伊豆国統治のための代官所が設けられていました。
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---『新編相模国風土記稿』によると、元和4年(1618年)に箱根山にかかる箱根峠と箱根関所の間の狭い地域に設置されたとあります。これに対して 古くからの箱根の町があった関所から小田原宿寄りの地域を「元箱根」と呼びます。これは関所設置に不満を抱いた元箱根の住民が本陣の提供を 拒んだため、三島宿寄りに急遽人工の町を設置したためだそうです。最初の住民は隣接する小田原・三島両宿場の住民を強制的に移住させたと いわれています。箱根町箱根に現在残る「小田原町」「三島町」の字は、この移住に由来します。また、「小田原町」は小田原藩が、「三島町」は 三島代官所(後に韮山代官所)が管轄するという、領主を異にする特殊な統治体制だったようです。このような統治体制は東海道五十三次の他の 宿にはみられない特徴です。標高725mという五十三次の中で最も高い場所に置かれていたため、幕府も宿場の維持に苦心しました。
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---江戸を出て最初の城下町にある宿場です。
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---延台寺にある虎御石は、曾我兄弟の仇討ちの際に、工藤祐経の攻撃を受けた曾我時致の身代わりになったといわれています。
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---藤沢宿 - 平塚 - 大磯宿
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---慶長6年(1601年)に東海道の宿場となりました。後に戸塚宿、川崎宿が追加され東海道6番目の宿場となります。東海道五十三次整備以前から 清浄光寺(遊行寺)の門前町として栄え、後北条時代は小田原城と支城の江戸城の桜田門、八王子城、玉縄城をつなぐ小田原街道の分岐点でした。 清浄光寺の東側に江戸側の見附(江戸方見附)があり、現在の小田急江ノ島線を越えた西側あたりに京都側の見附(上方見附)がありました。 この範囲が藤沢宿です。境川に架かる大鋸(だいぎり)橋(現遊行寺橋)を境に、江戸側(東岸)の大鋸町(後に西村が分立)は相模国鎌倉郡、 京都側(西岸)の大久保町、坂戸町は同国高座郡に属しました。右上の浮世絵の背景に見られるように清浄光寺(通称:遊行寺)が近くにあり、 手前の大鋸橋の京都側南東には江島神社の一の鳥居があり、ここから絵の手前右手へ江の島道が約1里(約4km)の距離で江の島に通じていました。 また八王子道(現・国道467号)のわきには源義経が祀られている白旗神社があります。幕末には70軒以上の旅籠がありました。藤沢御殿は 徳川将軍家の宿泊施設であり、現在の藤沢公民館と藤沢市民病院の間にありました。慶長元年頃東西106間、南北62間の広さの御殿が建てられました。 表御門は南側、裏御門は東側にありました。徳川家康、秀忠、家光と30回近く利用されています。天和2年(1682年)まで設置。現在では 御殿橋、陣屋小路、陣屋橋、鷹匠橋、御殿辺公園などの地名が残っています。
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---相模国鎌倉郡(今の神奈川県横浜市戸塚区)にありました。日本橋から旅程がちょうど一泊目にあたり、旅籠数が五十三次中、小田原宿に次ぐ規模で した。当初、保土ヶ谷宿の次は藤沢宿であったが、上記の理由から戸塚にも宿屋が増え、客を奪われることを恐れた藤沢宿の猛反対を押し切り、 幕府公認となりました。吉田町、戸塚町、矢部町の三町からなります。見附は、現在の吉田町イオン前と戸塚町大坂下(バス停前)にあり、品濃町と 原宿町に一里塚が残っています。大山道、鎌倉街道、厚木街道などと交差する要衝でした。幕末の黒船来航の際には、避難民が逃げてきたといわれています。 澤辺・内田の二軒の本陣がありました。澤邉本陣跡には屋敷神であった羽黒神社が現存しています。内田本陣跡は戸塚郵便局になっています。 戸塚宿にちなむ川柳「佐野の馬 戸塚の坂で 二度転び」は鉢の木物語のパロディで、「いざ鎌倉」と馳せ参じた老馬が鎌倉目前の戸塚で転んだ、と いう意味。「戸塚の坂」は戸塚宿の上方寄りにある大坂、あるいは程ヶ谷宿との間にある権太坂や品濃坂(東戸塚駅近く)のこととも言われています。 元遊廓の名残として、料亭の「丁字屋」が近年まで営業していました。
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---1601年(慶長6年)、武蔵国橘樹郡程ヶ谷(現在の神奈川県横浜市保土ケ谷区)に置かれました。程ヶ谷町、岩間町、神戸町、帷子町の四町からなり、 神奈川宿から南西に進んだ旧東海道は、芝生村から江戸見附(現在の天王町駅付近)を越えて宿場へ入り、帷子橋を渡って下岩間町・帷子田町・下神戸町・ 帷子上町・上神戸町・上岩間町・程ヶ谷町と町並みが続きます。程ヶ谷町には問屋場や助郷会所などがあり、さらに現在の東海道線踏切を越えた 保土ヶ谷橋交差点付近にあった本陣で大きく西に折れ、茶屋町の先にあった上方見附を経て宿場を出ると元来宿場のあった元町を通り、権太坂を登って 東戸塚駅方面へ進みます。1648年(慶安元年)までは元町付近に宿場があり、東海道も西北の位置にあったが、新町(下岩間町 - 程ヶ谷茶屋町)が 起立して道筋も変更になりました。新町起立の経緯や道筋変更の由来は現在も明らかになっていません。なお、程ヶ谷宿の正式なエリアは芝生村追分 (現在の横浜市営バス浅間町営業所付近)から境木立場(境木地蔵尊付近)までとされており、このため権太坂を程ヶ谷宿に含めることが多いです。
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---武蔵国橘樹郡、今の神奈川県横浜市神奈川区神奈川本町付近にありました。付近には神奈川湊がありました。神奈川宿は神奈川湊の傍に併設された町であり、 相模国や武蔵国多摩郡方面への物資の経由地として栄えました。なお幕末には開港場に指定されたが、実際には対岸の横浜村(現在の中区関内地区)が開港と なり、開国以降次第に商業の中心は外国人居留地が作られたこの横浜村に移っていきました。
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---東海道の成立時点では正式な宿場となっていなかったが、品川宿 - 神奈川宿間が往復十里と長く、伝馬の負担が重かったために、1623年(元和9年)に 設置されました。設置後には伝馬を務める農民の負担ばかりでなく、問屋場が破産に追い込まれるなどの窮状に陥り、1632年(寛永9年)には、宿役人が 幕府へ川崎宿の廃止を訴える事態となります。幕府は問屋場などへの支援を行ったものの、廃止の願いが受け入れられることはなく、さらには伝馬の 負担引き上げ、地震や富士山の噴火などで財政は困窮を極めました。そんな中で問屋・名主・本陣の当主を一身に兼ねた田中休愚は、幕府に働きかけを 行い、六郷の渡しの権益を川崎宿のものとしたほか、さらに救済金を取り付けるなど、川崎宿再建のために大きな役割を果たしました。
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---慶長6年(1601年)に、中世以来の港町として栄えていた品川湊の近くに設置され、北宿、南宿、新宿にわかれていました。場所は、現在の東京都品川区内で、 北は京急本線の北品川駅から南は青物横丁駅周辺までの旧東海道沿い一帯に広がっていました。目黒川を境に、それより北が北品川宿、南が南品川宿、北品川の 北にあった宿を歩行新宿(かちしんしゅく)といいました。歩行新宿は、品川宿と高輪の間に存在していた茶屋町が享保7年(1722年)に宿場としてみとめられた もので、宿場が本来負担する伝馬と歩行人足(かちにんそく)のうち、歩行人足だけを負担したために「歩行人足だけを負担する新しい宿場」という意味で 名付けられました。 品川宿は五街道の中でも重要視された東海道の初宿であり、西国へ通じる陸海両路の江戸の玄関口として賑わい、旅籠屋数や参勤交代の 大名通過数において他の江戸四宿と比べ数多いと言われています。
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---現在の日本橋を中心とした地域は、古くは武蔵国豊嶋郡に相当し、その中の江戸郷前嶋村と呼ばれる地域だったといいます。江戸は鎌倉時代の江戸氏の支配から 太田道灌、さらに後北条氏を経て徳川家康が幕府を開きます。その過程で、早くに町地として開発されたのがこの日本橋周辺の地域でした。さらに上でも触れた ように日本橋が架けられ交通の要所として定められてからは、金座や銀座が置かれ、日本初の百貨店三越の前身である越後屋をはじめとする大店が集まるなど、 江戸を代表する場所として殷賑を極めました。
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