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サンダーバード
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ご挨拶

  

◇(ホームページを世界に向けて発信します!!) new

2011年の東日本大震災のあと、ひょんな事から長年勤めた会社を辞めて始めたホームページ(、ブログ)ですが、 この度、『人気ブログランキング』に参加して他のブロガーの皆様と競い 合ってホームページの内容を充実させる事にしました。また、『アフィリエイト登録』 してサイトやブログを訪問された方の応援で小遣い銭?程度の収入を得ることのできるWEBサービスを導入 しました。各ページに「応援してね」という文章と共にバナーを配置しますので、ホームページの内容に賛同 された方は、どうか気軽にバナーを「クリック」、お願いします。
それでは、日々の気づきを日付ごとに日記風に記述していきます。気づきの内容は、左側の移動式バナーにて 一覧化しています。お好みの「記事タイトル」をクリックしてみてください。
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ハクモクレン
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2012/04/15

  

◇(公開にあたり)
少し古いですが以前の大河、龍馬伝は福山さん の熱演で実に好評でした。彼の人当たりの良さと人間味が新しい坂本龍馬像を作り出していました。 坂本龍馬の一番の功労は、大政奉還や船中八策での新政府の姿を描いた企画力であり、江戸から明治に移行する 正に維新に向けた新体制スキーム方向性提示、柔軟な発想力の取り纏め、とその展開力でしょう。
250年余も続いた江戸時代に一つの区切りを付けさせた、その努力は天晴れです。凡人では出来ない事で あったろう。よほどの執念と一途さが無ければ無理であり多くの尊王攘夷派連中の誰よりも早く、あるべき姿 を提示した彼は、幕末のヒーローです。
一方、英米相手に第二次大戦で大敗した日本。全国民が当時の流行イデオロギーに被れ、自らの実力も省みずに、 敗れ去った大戦敗北は、もしかすると明治維新よりも多くの人々に精神的なインパクトを与え、奈落の底に 落とされたと感じた人々は多かったはずです。そんな暗黒のような時に、新しい日本憲法の草案作成に立ち 上がった人たちがいました。
鈴木安蔵、彼の属した憲法研究会が作成した「憲法草案要綱」は、現行日本国憲法の基本概念として GHQ草案も参考とした傑作品です。現行日本国憲法が、日本人の手で作成されたとする証となっている点です。 この憲法草案を音読してみると、実に短期間に今の国民主権の考えや第九条の理念を的確に表したその正確性、 感性の凄さ、真に日本の行く末をどうするのか、考え抜いた姿がイメージされていて驚くばかりです。
帝国主義から一気に自由主義思想になる過程で日本人の生きるための道標として示された憲法の定めは、 当時の日本人にどれだけ勇気と自信を与えたことか、それは坂本龍馬が打ち立てた船中八策に共通する 日本に置ける重要な成果物だと思うのです。
坂本龍馬と鈴木安蔵。この2人は、もしかしたらこの日本と いう国の有様に、決定的な方向付けをした功労者として私たち日本人は、もう一度、彼らの進んできた 道を振り返り、彼らの考え方、行動を学ぶ必要があると思うのです。自分の事より日本の事を誰よりも考え 語り想像する、そんな余裕を持って生活してみたいものです。誰よりも自分をわきまえ、出来ることを こつこつ実行する姿を・・・。そんな思いでホームページを育てていきます。 ♥♥♥


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その時の歴史はどう動いたか?



大友義鎮
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2021/9/9

  

◇(アジア戦国大名の講義で知った事)new
室町時代の後半、戦国時代の一般的な流れは「表」として中央史が形成され、世にいう織田信長に始まる三英傑を中心とした史実があります。 でも西国を中心とした守護・戦国大名には別の「裏」としての歴史がありました。そして彼達は、いち早く海外との交易に取り組み独自の路線を 歩みます。今回、名古屋学院大の鹿毛先生の講義「アジアを見つめた戦国大名たち」を受講してとても勉強になりました。全ての戦国大名が 天下統一を目指した訳でない事が分かりましたし、いわゆる内戦状態だった戦国時代を、アジア史・世界史の観点から読み直すことで、 従来の戦国時代のイメージが一新されました。特に西日本の戦国大名の中には、中国や朝鮮、東南アジア諸国との外交と交易を意識・実行して、 乱世をグローバルに生きた方が沢山いました。講義のメモを以下に記します。

アジア戦国大名講義MEMO
第1回
「天下統一」史観の限界と克服
1336------------1573---------1603------------2021
 (中央史(表))⇒京都を意識する東国
   室町    安土桃山   江戸
   1467---------1590
     戦国
      ↓
      戦国大名の群雄割拠
      (権力の分散)
         ↓
       「京都によって全国統一」
       
 (地方(九州、裏))⇒海外を意識する西国
      大内氏 勘合貿易
      大友宗麟 キリシタン大名(豊後)
       南蛮貿易
       ポルトガル
       ザビエル
      島津氏 カンボジアとの貿易
⇒特に、西国の守護・戦国大名は、海外との交易や交流を大切にしていた。これは、信長や秀吉のように 室町幕府の政策や改革の方向性を理解せずにただ、武力による全国統一を目指した為に見落とした部分である。

第2回
朝倉義景の琉球渡船と大内義隆の対明貿易
・1568年 織田信長が足利義昭と共に入京したころ、朝倉義景は琉球に勘合貿易を持ち掛ける。
 鹿児島の島津氏に手紙を送り、支援と了解を取り付けている。
 さらに中世後期日本社会の中で、東アジア交易を最も積極的に進めた守護・戦国大名は周防の大内氏である。
・室町期日明関係への大内氏の主体的参入
 宝徳3年(1451)年に出発した遣明船から
  天龍寺再建資金調達の為に企画した遣明船…財政悪化で幕府船を艤装できなかった足利義政が
  参入希望諸勢力に日明勘合をばらまいて勘合礼銭を獲得しようとしたのが契機
  宝徳時の遣明船は、史上最多の十隻の派遣を計画…畿内勢力以外の大内氏や大友氏が勘合を獲得
   
⇒15世紀半ば過ぎの大内氏が従前の対朝鮮交易に加えて、明との交易に主体的に乗り出す。 その後に応仁・文明の乱での幕府との対立や対抗する細川氏の策略で、文明8年(1476)、文明15年(1483)は企画で頓挫。
 宝徳時の遣明船派遣から約40年後、16世紀初頭の永正時派遣で、大内義興が遣明船経営復活を実現。
 対抗細川氏勢力を退け、16世紀半ばの天文7年(1538)度、天文16年(1547)の遣明船経営を独占。
 志賀島から平戸経由、寧波(にんぽう)〜北京までの往復、3年越しの遣明船派遣を成功させる。

 

第3回
相良義滋・晴広の遣明船と肥後宮原銀山
 朝倉義景  1533---------1573(41歳)
 島津義久  1533--------------------1611(79歳)
 大内義隆 1507-----1551(45歳)
 織田信長  1534-------------1582(49歳)
 豊臣秀吉  1537----------------1598(62歳)
 徳川家康  1543-----------------------1616(74歳)
 相良義滋 1498---1546(58歳)
 相良晴広 1513------1555(43歳)
 大友宗麟  1530--------------1587(58歳)
 毛利元就 1497------------1571(75歳)
 
⇒海外外交を推進した島津氏、大内氏、相良氏、大友氏達が亡くなると豊臣氏の独壇場となる。彼は、京都を足利家を担いで収めるが、 今までの室町幕府の外交政策を一転、強硬外交に転じる失態を犯すことなる。

第4回
大友義鎮と島津義久によるカンボジア外交権の争奪戦
 大友義艦の子。1551年、ザビエルのインド渡航に際して、ポルトガルのインド総督あての書簡と贈答品を携えた使者〈洗礼名:ロウレンソ・ペレイラ)を 同行させ、インドのゴアに派遣。1556年、明使鄭舜功の帰国に合わせ、清授を正使として寧波(にんぽう)に派遣。清授はその後、四川省茂州の治平寺に移る。 1557年から1558年にかけて中国都市を転々した。1573年「南蛮国」カンボジアへ貿易船を派遣。この貿易船は取引ののち、九州に戻るが阿久根で破船した。 1578年ころ。カンボジア国王が大友義鎮に銅銃、蝋燭、像と像遣い、鏡匠を乗せた商船を送るが、豊薩合戦で優位に立った島津義久に拘留された。 島津義久は、薩摩・大隅・日向を支配した戦国大名。豊後を目指していたカンボジア国王使節の商船を拘留し、1579年11月、大友氏に代わって カンボジア国王へ書簡と産物を贈答した。

第5回
「硫黄大名」大友・島津 VS 「銀大名」尼子・毛利
15世紀から17世紀にかけての日本列島社会は、「硫黄の世紀」から「銀の世紀」へと大きく時代相が転換していく流れを有しており、室町・戦国から 近世初頭までの武家社会日本は、硫黄山を領有する「硫黄大名」が経済的に優越した時代から、銀山権益を獲得した「銀大名」が優越する時代へと 転化していった。島津氏、大友氏から毛利氏、豊臣氏までの諸大名が各鉱物資源の獲得に競合する数百年間の時代を経て、やがて17世紀初頭に成立した 徳川政権は、硫黄と銀の両方の権益を全国的に獲得して、安定した統一政権を実現した。初頭の江戸幕府は、「硫黄の世紀」から「銀の世紀」への転換を 集約し、サルファーマネーとシルバーマネーの双方を優越的に獲得した徳川氏の鉱業政策によって経済的に支えられたものとも言えよう。 そして、その後の近代の歴史は、全国で炭鉱開発に伴う産業が隆盛を極めた「石炭の世紀」を経て、20世紀の「石油の時代」=オイルマネーの時代へと 推移していくのである。(鹿毛敏夫編「硫黄と銀の室町・戦国」(思文閣出版)より
■既に20世紀来の「石油の世紀」を謳歌してきた私たちに、その前世紀の「石炭」からの恩恵の記憶が薄れたように、「石炭の世紀」の産業革命に邁進した 人々も、その前世紀の「銀」が有した世界通貨の意義を喪失。同時に、16世紀後半以降の「銀の世紀」に世界経済の一体化を担った人々も、その直前の 火器(鉄砲等)の時代に広く流通した「硫黄」や「鉛」の軍需品としての価値を忘却している。
■「硫黄の世紀」⇒「銀の世紀」⇒「石炭の世紀」⇒「石油の世紀」
鉱物資源に依存してきた人類の歴史の大きな流れの理解→限りあるそれらの資源を今後、どう利活用して未来の社会を構築していくかという道標を立てる事 も可能となろう。

第6回
アジア外交の一元化〜強硬外交の秀吉・協調外交の家康
戦国大名権力=ある程度の独立性・自己完結性を持った『地域国家』で発揮した外交
■豊臣秀吉
 1590年までに全国統一を完成
 但し、『地域国家』の持つ外交権は、温存させたまま。(16C)
 ・対馬…対朝鮮外交(宗氏)
 ・中国、明…大内氏、大友義鑑氏
 ・ポルトガル…大友宗麟氏
 ・琉球…島津氏
 ・カンボジア…島津義久氏
 ・アユタヤ…松浦氏
 ⇒強硬外交にこだわる秀吉
 ⇒各国に朝貢を要求⇒武力で進行
 ⇒朝鮮出兵
■徳川家康
 崩れた国際関係を修復(国交回復、17C)
 協調外交の家康
 ↓
 戦国大名が「地域国家」として個別締結していた二国間関係を17C統一日本の国家主権として一元的に集約
 ・1604年〜1635年までの朱印船貿易で355隻渡航
 ・空前の東南アジア外交全盛期(日本人町が形成)
■日本外交2000年における戦国大名外交史の意義
 ・BC1C(弥生)→→使者→→中国、前漢
 ・AD1C(奴国)→→57年、大夫→→中国、後漢
  お返しが「金印」
 ⇒遣隋使、遣唐使など朝貢がメイン 中国へ
 ・戦国大名の外交で変化
  〜1550年 大内氏 朝貢が主体
  16C後半〜 大友、大内義長あたりから 脱「日本国王」外交 脱「中華志向」外交に変化
 ⇒新たに東南アジア、ポルトガル、スペインとの外交へ
 ⇒そして徳川家康が総まとめとして国際関係を修復していった

江戸時代を開いた徳川家康は、室町時代からの伝統的な外交を修復して、世界の中の日本を形成していった功労者だったのです。 鎖国なんてしてません。じっくり時間をかけて、世界の情勢を見ながら「日本の進むべき道標」を指し示したのです。


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今川義元
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2021/3/3

  

◇(好きな武将は今川義元と明智光秀)
私は、徳川家康と同じく愛知県岡崎市で生まれ育ちました。母校の校歌にも「かの英雄が残しけむ」 「誇りを如何で忘るべき」とありまして、勿論家康ファンですが、家康以外に歴史上の人物で好きでまた 非常に興味がある武将がいます。

◆織田信長に討ち取られた今川義元
◆織田信長を討ち取った明智光秀

共に歴史上では有名な「戦い」と「事変」の要人であり織田信長と直接対峙した戦国武士です。また、 人気があって目立つ織田信長に比べると不人気で、歴史上の評価は敗者や容疑者として扱われており、 今一つ評価もパッとしません。でも、この二人の人生や行いこそ、日本の歴史を変えた「真の英雄」を 思わせる一面があります。そこにとても魅力を感じるのです。彼らの起こした「戦い」や「事変」の 詳細を調べる事で、彼達の行為から歴史の神髄とその背景に迫ってみましょう。

まずは1560年、織田信長に討ち取られた「今川義元」です。
歴史は常に勝者の側から語られ、敗者は冷たい視線にさらされます。今川義元もそのひとり。毛利元就、 武田信玄、上杉謙信、北条氏康、織田信長、豊臣秀吉とともに“戦国七雄”に並び称されながら、桶狭間の 敗戦以来「無能な武将」の酷評がつきまといます。しかしこの人物、決して暗愚でも軟弱でもないです。 事跡(じせき)をたどれば、確かに戦国史に躍った東海の雄。彼こそ一時代を創った武将なのです。
彼は、今川氏親と寿桂尼(公家の中御門宣胤の娘)の間に生まれた今川家の五男でした。出家してましたが 長男次男達が急死し、今川家の家督を継承する事となりました。既に、今川氏親は街道一を争うほどの 勢いのある戦国武将でした。「御所(将軍家)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」という 武家の名門なのです。相模の北條家、甲斐の武田家と覇権を争っていましたが、三国同盟を結ぶ事で、 いよいよ駿河国の西側の地域(三河、尾張)に勢力を伸ばします。名参謀、太原雪斎の知力、企画力で 徐々に勢力を拡大し、尾張の織田家が征服されるのは時間の問題と思われていました。 この太原雪斎は、徳川家康の駿河人質期の教育担当でしたね。
では、戦国時代のポイントとなった「桶狭間の戦い」について詳しく述べてみます。良くテレビなどで 紹介されるような織田信長の奇襲攻撃で、今川に一矢を報いたといった戦いの背景を探ります。

<桶狭間の戦いの背景>
実は、今川義元は陸の領土拡大みならず、海での勢力も拡大しつつ、伊勢湾進出していたのです。
・永禄3年(1560) 5月、今川義元は大軍を率いて尾張に侵攻をかけています。
・それまでの今川家内部の動きは、
 @弘治2年(1556)頃から、嫡男の氏真への家督譲渡を徐々に進めていました。
 A義元の発給文書は三河に集中するようになっていました。
  ←名参謀、太原雪斎の死で揺らいだ三河支配を立て直す「三河の領国固め」に注力します。
一方の尾張…織田信秀没後、弾正忠家の混乱。信長と弟信勝で「家督分割」の状況になっています。
・今川との和睦ムードのなかで主戦論を掲げる信長は孤立します。
・守護代 清須織田氏討伐(1554年)、織田信勝殺害 (1558年)を経て、信長主導の体制となります。

⇒尾張の動揺を機に、「境界領域の安定と領国拡大」のため、義元は大胆な軍事行動に出たものと 考えられます。 (※近年は義元の上洛説は否定されることが多い。)

<当時の今川氏と海の世界を纏めます>
・早くから三河国渥美半島の戸田氏を攻略して足掛かりを築いていました。
・義元は尾張知多郡を勢力下に置く(三河国吉良荘今川郷(西尾市)を名字の地です)
 →三河湾を取り込み、さらに伊勢湾へ進出を図っていました。
・弘治元年(1555)、今川勢が伊勢・志摩を襲撃します。
・服部左京亮(三河湾の服部党)の動き
 ・利浦....現在の弥富市利浦。木曽三川下流部は乱流地帯(=水上交通の拠点)でした。
 ・左京助.....荷ノ上(二の江)の豪族服部友貞。服部党の当主であり、海上流通に関与し成長します。
 ↓
・鳴海城…織田信秀が山口左馬助父子を置くも、今川方に寝返ってしまいます。
 弘治3年(1557)、今川義元は成海神社に社領安堵の「朱印状」を出して鳴海地域に勢力を延ばします。
・鳴海城周辺の景観・天白川(黒末川)河口の港湾都市でした。
 中世では星崎浜に続く「鳴海潟」。東海道の鳴海宿があり、陸上・水上交通の要衝となっていました。
 遠浅の干潟...潮が引いたタイミングで浜辺の道が出現(熱田までの近道)します。
・戦国期にも活発な伊勢湾内の海上交通が発達していた訳です。
 …今川・織田・北畠ら様々な勢力が競う。どちらか一方に味方してしまうと商売に支障をきたす。
・海上交通を下支えするく海の勢力>…中立的に立ち回るものが多かったのではとの見方があります。

<海からみた「桶狭間の戦い」を見てみましょう>
・今川軍の尾張出撃
 ・義元は事前に出兵を伊勢神宮に告知しています。
 ・服部友貞らとも連携して、軍事侵攻を開始。
 ・前提として、鳴海〜長島・伊勢の間で今川と服部党は連携が成立していた可能性が高い。
 ・桶狭間の戦いで、その連携が失敗したのはなぜか?⇒ここがポイント!

織田信長の動き
(5月17〜18日、今川勢の進軍状況把握していた)
19日朝、清須から熱田へ(約2時間)
辰刻、熱田から鳴海を見る
善照寺砦へ移動(今川の先勢と小競り合い)…干潮時の特徴
中嶋砦に移り今川本陣に迫る(大雨・西風)…干潮時の特徴
未刻、今川本陣を攻撃(義元落命)

今川義元の動き
5月17日、沓掛城に入る
18日、大高城に兵糧搬入 (家康担当)
19日朝、周辺の砦を攻略…海に出て服部党との合流目指す?
午刻、「おけはさま山」から北西に進軍…干潮となり服部党との合流できず?
未刻、信長勢の襲撃(義元落命)

<本当は今川義元の上洛説ではなく、織田を制圧する「尾張侵攻計画」だった>
・海戦に不可欠な潮回りを復元してみる→海上保安庁HP の潮汐推算で潮回りが判明する
 永禄3年5月19日=ユリウス暦 1560年6月12日
・日の出(4:30頃)〜朝方は「満潮時」。信長が鳴海・大高へ攻めにくい時間→今川勢の攻撃。
 信長は満潮で海岸ルートを使えず、迂回して善照寺砦へ
 午刻〜未刻は「干潮時」。信長は河口部の中嶋砦へ容易に移動。接近してきた今川本陣に襲撃。
 遠浅の海岸=水深のある水軍の武者舟は機動力が落ち、強い雨風で接近できす。(義元の応援来れず)
・夕刻ふたたび潮が満ち始める。天候も回復し服部党の船が熱田を襲撃しに移動した。
 ↓↓↓
・山中での局地戦というイメージが強い桶狭間の戦い?
 ⇒実態は今川義元が広域な諸氏を海岸沿いに動員していた「尾張侵攻計画」だったと考えられる。
・伊勢湾に及んでいた今川氏の影響力は強力だった...交通拠占の掌握に狙いを定めていたものか?
 ⇒今川氏の三河支配の特徴…東海道など平野部を先行して掌握し、同時に海岸部も攻める戦法か?
・桶狭間の戦いから、今川氏の三河・尾張支配の特徴に迫ることができるだろう。

<「桶狭間の戦い」の真実とは?こうだ!>
・義元みずからの尾張侵攻であり、それは水陸両面からの「尾張侵攻計画」だった。
 目的…三河支配の立て直し、境目地域の安定、あわよくば尾張での領国拡大 etc
・今川勢は伊勢湾を超えて、広域な諸氏と連携(流通拠点を優先して掌握) していた。
・大名当主自身の境目地域への出馬...流動的な中小領主を従属させる政治的効果。
 ※塗輿の使用...室町幕府の秩序のなかで、限られた家だけが使用できる身分特権
・用意周到に進められた侵攻であったが、しかし天候、暦は義元に味方せず。
・織田信長は、天候、暦が味方したラッキーな勝利を収めてしまった幸運の持ち主だった。

まさかの戦死…今川氏の尾張・三河支配は空洞化へ⇒織田の美濃攻め、徳川家康の独立を促し、 新たな歴史的局面に入ったのです。織田信長は、単なるラッキーボーイに過ぎなかったのです。


明智光秀
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2020年のNHK大河は「麒麟がくる」でした。もう一人のお気に入り人物は、主役であり織田信長を討ち取った 「明智光秀」です。彼の生まれ育ちは、美濃ですが、織田信長に仕える までは足利将軍や公家とのやり取りの巧さなど、ヴェールに包まれた戦国武将です。彼は、どうして信長を 討ったのか?その真意に迫ります。

<敵は本能寺>
明智光秀が謀反を企てた決定的要因とは?
NHK大河「麒麟がくる」の時代考証を担当され、また母校の名誉教授、小和田 哲男さんの推理はこうです。

本能寺の変の謎は、戦国時代最大の謎といっていいかもしれない。天正十年(一五八二)六月二日未明、 わずか百名ほどの家臣で京都本能寺に泊まっていた信長を、一万三千の兵を率いた明智光秀が急襲した。 信長は、天下統一まであと一歩というところで、家臣の一人に殺されてしまったのである。
このような大がかりな謀反が成功したということ自体驚きであるが、光秀はなぜ信長に対して謀反を 起こしたのだろうか。一番ポピュラーなのは、怨恨説である。要するに、積年の恨みをいっきに晴らした というもので、この怨恨説の背景には、信長が光秀から恨みをかうような行為がなければならない。
実は、この、恨みをかうような行為というのが問題なのだ。これまで指摘されている恨みをかう行為なる ものを列挙してみよう。

<明智光秀が怨恨抱く要因>
(1)丹波一国・近江二郡をとりあげられ、まだ領土となっていない出雲・石見に国替えされた。
(2)丹波八上城攻略の時、母を人質に入れたが、信長が八上城の城主兄弟を殺したため、母も殺された。
(3)長宗我部元親を味方にすべく動いたが、武力討伐と決まり、面目を失った。
(4)家康を安土城に饗応した時、理由もなくその役をとりあげられた。
(5)甲州武田討伐の時、「これでわれらも骨を折った甲斐があった」といったのを「お前がどこで骨を 折ったというのだ」と面罵された。

このうち、有力な論拠とされている(1)(2)については、その出典になる史料の性格からして事実とは 思えないし、(3)(4)(5)も、それが恨みのもとになったと考えるには無理がある。私は、怨恨説は、 のちになって人々がいいはじめたものと思っている。
次は野望説である。確かに、「光秀にも天下に号令したいという野心があった」ということは事実であろう。 しかし、それにしては、信長を倒したあとの光秀のやり方はなっていない。そんなこともあって、 「本能寺の変は偶発事件なんだ」という考え方も浮上してきているのである。ただ、ここで注目して おきたいのは、本能寺の変直前、朝廷から信長に、「征夷大将軍か関白か太政大臣か、お好きな官に 任命しましょう」という内示があったという事実である。もっとも、この事実が明らかになってきたのは そう古いことではなく、必ずしも周知のことがらではない。少し説明を加えておくことにしよう。

<公家の日記より分かってきた事>
東京の国立公文書館内閣文庫に、「日々記」という日記の断簡が所蔵されていた。存在そのものは知られて いたが、誰の日記の断簡であるかがわからなかったのである。それが岩沢恩彦氏の研究によって、公家の 勧修寺晴豊の日記の一部だと判明した。そして、そこには、今まで知られていなかった重大な事実が 書かれていたのである。何と、この「日々記」によって、本能寺の変一カ月前の朝廷側の動きが手にとる ようにわかってきたのだ。
「信長が、甲斐の武田氏を滅ぼして、安土に凱旋してきたのは天正十年(一五八二)四月二十一日のことで あった。その四日後、朝廷において信長の処遇をめぐって協議がされている。要は、「信長を何かの官に つけなければ」というところである。そこで、信長の意向を打診するため、勧修寺晴豊が安土に勅使として 派遣されることになったのだ。晴豊は五月五日に安土に到着し、五月六日、信長と対面している。
晴豊は、直に信長の口から、「征夷大将軍になりたい」とか「太政大臣になりたい」とかの希望を聞き出す のが目的だったが、その日、信長の口からは返事がなかった。
「お好きなものを」といわれても、信長としても困ったろうし、何よりも、こうした重大な返事は、 できれば天皇以下、延臣のいるところで重々しくやろうと考えていたのかもしれない。
五月二十九日、信長が上洛したのは、確かに、羽柴秀吉の応援に中国筋まで出かける途中という側面も あったが、「征夷大将軍か関白か太政大臣か」といわれていることに対して返事をすることも目的の一つ だったとみている。
そして、信長は将軍になろうとしていたのではなかろうか。しかし、信長はそのころ平姓を称していた。 歴史上、将軍には平家の人間が任じられたためしはない。そして、光秀は土岐氏で、本姓は源氏。これは 私の仮説であるが、光秀は、前例のない平姓将軍をストップさせるため、源氏の人間として信長を討った のではなかろうか――。
ほかに、天皇の譲位を要求したり、天皇が決定権を持つ暦に口をはさんだりしはじめた信長の暴走を 阻止するねらいもあったと思われる。

<平氏、信長への対抗心とは?>
明智光秀の行動もまた、新たな歴史の局面を切り開きました。そこには、彼の生まれ育ちの素性から 決して許すことのできない運命のような「宿命に裏打ちされた」行動だったと見る事が出来ます。
「源氏と平氏」
1180年、後白河法皇の息子である以仁王が源頼政と謀って平氏追討を計画。同年8月、源頼朝が伊豆で挙兵。 東国の源氏ゆかりの武将達は頼朝を総大将に結束して平氏を滅ぼしました。鎌倉幕府を興して400年の時を 経た時、明智光秀(源氏)も彼らと同じく織田信長(平氏)に対する歴史的な「血筋、血統」の違いを感じての 行動、それが「本能寺の変」だったのかもしれません。


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遠州攻略
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2016/1/16

  

◇(その時、歴史は動いたのだろうか??)
三河から遠州攻略へ   今川氏と武田氏      本多髏ャ先生
「その時、歴史が動いた」 毎回、番組の佳境の時に司会の松平定知アナウンサーが発する「そして皆さん、いよいよ今日のその時がやって まいります……」のフレーズが1つの特徴のNHK歴史番組。私も歴史の知識を多く学ばせてもらったが、今日の 講演会では、本多先生から現状の歴史の研究の第一線の事実を学びました。

例えば、徳川家康と武田信玄の「三方が原の合戦」。今までの日本史では、武田軍勢は信州より県境の青崩れ峠を通って、 遠江を南下し、三方が原で家康との合戦となったと教わり定説として信じられていたのであるが、実は、武田軍は 駿河から西進して来たという事実が近年、調査で判明したという事である。
今川義元が織田信長に打たれた後は今川・武田・北条の三国同盟が崩れ、武田信玄の駿河攻略が始まった。これにより、 駿河は武田の領地となるが、信玄は相模の北条には眼もくれず、駿河に下ると西進を始める。一方の徳川家康も ほぼ同じ時期に三河から遠江に東進。徳川と武田の領地の境は「川きり」ルールで「川」なのだが、徳川家康は、 川=大井川と思っていたが、武田は、川=天竜川と思っていて双方の目論見の違いから戦となったようだ。
理由はさておき、南下と西進では全く異なるわけだ。本多先生によれば、武田信玄の書状を受け取った寺の調査から 信玄の西進が裏付けられ学会へ発表を行ったようである。そう言っても教科書にも出てて長年信じられた武田の 南進という史実をそう簡単には学者も受け入れないようで、学者間の論争となっているようである。
これだけではない。武田信玄は、三方原の合戦で徳川家康と蹴散らすと、さらに西進するが、その理由も諸説あるらしい。 「京都への上洛戦」説、「対、信長の局地戦」説、「対、家康の局地戦」説と3つもあって学者間で争論となっているようだ。 今までの通説としては、「京都への上洛戦」説が有力のようだが、実は、当時の将軍家の足利義昭は織田信長の 「操り人形」的な将軍ではなくではなく、偉大で力があった将軍だったらしい。
足利義昭は、織田信長と武田信玄に命じて室町幕府を再興する夢を持つ有能で出来た人物だったようである。 つまり武田信玄は、自ら上洛して将軍になろう・・・なんて事は、ゆめゆめ考えておらず、どちらかと言えば、 足利義昭将軍に気に入られようと「対、信長の局地戦」と考える方が正しいようだ。
織田信長の評価も、ここ数年でかなり変わってきているようだ。
神田千里著「織田信長」には、斬新な信長像が 描かれている。兎に角ワンマンで強引、室町時代の終焉は、織田信長によってなされ混沌とした時代を作り出した という織田信長像は、新しい解釈ではどうも違うようだ。

歴史の教科書やテレビ・映画などの情報では、ほとんどの方は
■古い体質の社会に変革をもたらす革命児
■神仏の恵みや祟りを信じない科学的な思考の持ち主
■過去の実績などは評価せず新たな試練に挑戦するグローバル時代風の管理者
・・・といったとこでしょうか。
実は、織田信長の実像は、残された資料による最新の研究では、
■足利義昭の「顔色」を伺って、常に主君として立てて行動する協調性があり、 もちろん、天皇や朝廷の意向には絶対服従する人臣として行動してきた人物
■天下布武とは天下統一を目指すものではなく畿内5カ国平定を目指すもので戦国諸大名との 共存を目指し合議のもとに足利政権(、天下)のありようを決めようと努力した人物
■世間の評判を重視して傍からの目を気にしながら行動する慎重なタイプであり、 誰よりも常識に富んでいた大人であり、かつ老獪な政治家
これが歴史学者たちの描く最新の「織田信長人物像」だそうです。 それは巷での信長像とは真逆の実像なのであり、日本史で習った内容が変わってる 事実に驚きを隠せませんでした。 また同時に足利義昭の実力・評判も当時としては侮れないものだったようです。 信長の「操り人形」ではなく将軍家足利の棟梁として有能な将軍だったようだ。 そうすると、戦国時代の実像は次のように纏めることができるかもしれません。
■当時の時代背景から織田信長も地方の戦国大名であって、幕府には律儀で従順な人物だった
■足利義昭は、有能な将軍で東の武田・上杉、西の毛利という二大勢力を利用して日本を コントロールしつつ畿内の安寧は、織田信長に委ねて戦国時代の日本を統治した有能な将軍
■それを受けて信長は、西の毛利は秀吉に担当させ、東の武田は家康に任せて監視、制圧していった。 (彼らの家来の黒田官兵衛や井伊直政の活躍でNHK大河でもようやく取り上げられるようになってきた。)
信長、秀吉、家康と綿々と主役交代が続く戦国時代は、武力に訴えた「下克上」の時代では なくて、諸大名の勢力バランスの上に計算された、意外と粛々と政権交代が行われた時代だ という見方もできるかもしれない。 「その時、歴史が動いた」のではなくて「今でも歴史は動いてる!!」ようです。
「歴史」であっても、その解釈は今でもアメーバーのように動いていて、常に学者や 研究者にて更新されているのが実態なのです。固定観念や過去の栄光、トラウマに 縛られてはいけません。物事を決まった面/通常の評価から見たり判断するのではなく いろんな角度から見つめ直し評価しなおす柔軟性がとても大切なことです。 現代社会でもイノベーションを起こす人は常識人であり保守的な人の方が多いかもしれません。
今回も本稿をご覧いただき、ありがとうございました。♥♥♥


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静岡大学 あ ら か る と



静岡大学浜松キャンパス
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2017/10/14

  

先日、静岡大学浜松キャンパスを訪ねてみた。卒業から既に40年近く立って久しぶりの母校訪問だ!写真は 新たに出来た「共通講義棟」のオープンセレモニーテープカットの一コマ。昔、「情1」「情2」教室のあった 場所である。私もこの教室では、応用数学や情報工学の講義を受けて懐かしい場所だが、立派に改築されたのである。
この講義棟は、5階建てでアクティブラーニング講義室を2つ配置し、大講義室や中講義室などで構成された 素晴らしい講義棟だった。アクティブラーニングとは、座学中心の一方的教授方法では身につくことの少な かった21世紀型スキルをはじめとする汎用的能力、ひいては新しい学力観に基づくような「自らが学ぶ力」が 養われることが期待されている学習法だ。
静岡キャンパスもそうだが、浜松キャンパスもどんどん変わっている。卒業生としてはうれしい限りだ。 どんどん変わっていく大学の姿を、そして私が知っている静岡大学の歴史や四方山話を記述して残してきたいと思う。 名づけて・・・・・

◇(静岡大学 あ・ら・か・る・と)

静岡大学静岡キャンパス
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◆私の知り得た静岡大学に関するいろんな情報を集めました。 随時、追加して内容やレイアウトを更新いたします。(2017.10.22更新)
◆Yahooの知恵袋で閲覧数2万回突破しました。ありがとうございます!!
◆静岡キャンパスも浜松キャンパスも諸先生方や事務方の皆さんの努力で実に立派な大学になってまいりました。 ご期待ください!!


1.静岡キャンパスの高低差はどの位でしょうか?
2011年NHK番組「爆笑問題の日本の教養」で認知心理学の村越先生は、静岡キャンパスで一番高いところは、 標高103メートルとおっしゃってました。定年坂(静鉄バス「静大前」停留所近くにある、厚生施設「銀杏」まで の急な上り坂の事です)入り口あたりが、もっとも低い所(4,5メートル位)との差から、なんと標高差は、 100メートル近くあると思います。これは、日本の大学キャンパスでは、トップクラスの高低差のある キャンパスだと思います。学生(、講師陣)泣かせのキャンパスです。また、共通教育(教養D棟)から北に 延びる階段は「稲妻階段」と言う絶壁のような階段です。まず自転車では降りられません。

2. 静岡キャンパスの事務局と農学部の間に架かる橋の名前は?
「権現橋」と言います。静岡(、駿府)浜松は、徳川家康がこよなく愛した城下町です。彼に由来して命名して います。同名の橋は、日本全国にありますが、静岡キャンパスもその由来を引き継いでいるのです。

3. 浜松キャンパスにある「北会館(生協)」は昔、どんな設備でしたか?
浜松キャンパスには、北と南と2つの生協があります。その北会館は、実は、昔の情報工学科の電子計算機室を 改装して建てられました。電子計算機は、当時、非常に貴重な設備でして、冷暖房完備されたオアシスのような 広い棟に鎮座していました。今では、「どこでもコンピュータ」ではないですが、個人個人が携帯端末を持ち歩く時代。 機能的にもコンパクトになって電子計算機(古い言い方ですが)の設置エリアも不必要となり、北会館として生まれ 変わりました。正に「コンクリートから人へ」の転換をいち早く実現した好例だと思います。

4. 静岡キャンパスにある生協の特徴(、ビューポイント等)は?
静岡キャンパスには、第1〜第3生協と3つあります。(第1は、旧教養部、第2は、学生会館、第3は農学部内ですが、 今は銀杏とか人文売店など出来ています。)それぞれ特徴があります。静岡の街の夜景を観るなら第1生協、駿河湾の 海を見るなら第3生協、富士山を見るなら第2生協でしょう。でも富士山の眺めは、大谷海岸から静岡キャンパスを 背景にしたビューポイントがお奨めです。食事等は、学生向けにリーズナブルで栄養価の高いメニューが揃っています。 東静岡駅近辺、柚木あたりでの下宿生活は富士山を仰ぎ見ながら生活できる日本一恵まれた学生生活だと思います。
<静岡大学・部局紹介動画番組ビデオです>⇒ここをクリック(Click)

5. 学内の名所案内、伝説(、伝統)など紹介・・・静岡キャンパス
静岡大学は、坂の多い国立大学として有名です。キャンパスにもいろんな名所がありますので紹介しましょう。 まずは静岡キャンパスから、・・・
<学生目線の静大>」もご参考にしてくださいね。⇒ここをクリック(Click)
◆静大のキャンパス⇒ここをクリック(Click)
◆静大の周辺⇒ここをクリック(Click)
◆学習・生活⇒ここをクリック(Click)
◆部活・サークル⇒ここをクリック(Click)
・定年坂
東名高速トンネルをくくって共通教育棟に行くまでの坂道の事。定年に近い先生や遅刻する学生にはキツイ坂道であり、 正に「坂道の静大」の象徴的な坂道です。入学当初は若さで苦にならなくとも、通学時には、皆、息を切らす4年生や院生、 先生泣かせの坂道。坂の両側にはサークル勧誘のたてかんがびっしり立ってる時もありますよ。(静大祭の時、新入生歓迎の時など)
・ねこ広場
定年坂終点あたりの共通教育(B棟)と理学部の間に広がる猫の額程度の広場。サークル活動の「メッカ」で、特にK-ONなど 音楽系サークルの修行の場でもあります。自宅通学生などは、昼ごはんを食べる広場としても有名。秋は、色づいた銀杏の実の 独特な匂いが、季節の移り変わりを感じさせてくれます。(?)
・稲妻階段
共通教育棟(D棟)より帰宅する近道として利用できる階段。あまりに急でまさしく「稲妻」の姿より命名されました。 自転車通学生は、決して利用できません。
・天空の城
人文社会科学部の校舎群の別名。坂を上り詰めた大学の最上部に位置する為についた通称。人文社会科学部生は、平均1.5kmの 移動と高低差約100mを強いられるので、学生時代に強い足腰を獲得できる貴重な学部でフットワークの良さから就職にも 役立つ(、気がする)・・・。
・陸の孤島
農学部の校舎群の別名。浜松キャンパス(工学部、情報学部)を除いて静岡キャンパスでは、橋(権現橋)を渡って離れ小島に 移動するイメージから命名されてます。農学部は、付属農場やら施設がこの小島に集約されていて学部生としての移動は楽で、 第三生協も遠隔地なので独自運営されています。静大で一番登りにくい「ダメ階段」があるのもここ。
・たけのこ狩り
農学部の校舎群の周りには竹藪があります。毎年、3月にはたくさんのたけのこが育ちます。大学もサークルメンバーと共同で 「たけのこ狩り」を開催します。一般の皆様も招待して行われまして、もちろん、取ったたけのこは「たけのこご飯」にして 頂きます。学長も参加する、下宿生にとっては本当に有難い行事です。(農学部建て替えを機に無くなってしまったかも?)
・静岡/浜松のモニュメントについて
1999年に静岡大学50周年記念モニュメントとして、静岡及び浜松キャンパスに設置されたもので、鳩とフクロウのブロンズ彫刻は、 それらが総合して本学の教育理念と真理を探求する学問の府を顕し、カタツムリは形態の和やかさ優しさと同時に地に着いた 着実な歩みと後進への道標を意味しています。(静岡キャンパスは、鳩とカタツムリ)また、近くに方位石が設置されキャンパス 相互の位置関係がわかります。すべて本学教員が製作しています。銘板に説明が記されていますので、ぜひ一度ゆっくり読んで みてください。
・学長杯マラソン大会について
体育会のイベントなため、部活・サークル単位で参加している方が多いですが、2013年で38回目を迎えます。参加者の格好も、 ユニフォーム・道着といったものから、有名なキャラクターのコスプレなど、とても楽しそうなマラソン大会です。マラソンは、 静岡キャンパスの周囲6kmを回るコースで、男女上位3名には賞品も贈られます。そして、素晴らしい仮装をした部活・ サークルには特別賞も・・・。

6. 学内の名所案内、伝説(、伝統)など紹介・・・浜松キャンパス
次は、浜松キャンパスですが、昔から静岡(駿府)と浜松(遠江)は別々のお国ですから、いろんな伝説が存在しています。 2つは同じ県内でありながら、お互い刺激し合い、競い合って発展してきています。
・駅伝大会
新春の箱根駅伝は、2012年で第88回を数え、東洋大学の圧勝で幕を下ろしましたが、旧制浜松高工から引きつがれている、この 静大の「駅伝大会」は今年、第85回目となる、箱根駅伝に勝るとも劣らない大会です。毎年、5月中旬に新入生歓迎の意味む含めて 開催されます。近年は、佐鳴湖周辺のコースに変わりましたが、以前は、浜松の西地区を中心に20km以上のコース設定で開催して いて、個人の部・団体の部で日ごろ全くランニングやマラソンに縁遠い学部・院生・OBの参加で盛り上がります。浜松に縁の ある企業からの参加や差し入れもあり、浜松キャンパスの名物行事です。学生、教職員ともに各学部各学科ごとにチームが編成され、 佐鳴湖のほとりの全七区間を、一区間につき2〜3人の同チームの選手が一緒に走ります。全員が揃わないと次の区間に進めないため、 速さとともにチームワークが競われます。
・浜松キャンパス北西の森にはリスがいる?
私が通学していた頃までは、北西の「弓道場」近くにある森にはリスがいました。今は、いるかどうかは未確認ですが、浜松市内で リスを観られる箇所は非常に貴重ですね。文丘町の皆さん、今もリスを見かけますか?
・医学部設置問題
静岡大学には、医学部がありません。歴史を紐解けば、明治維新の頃の勢力関係から徳川派だった地域には、官立の医学校が つくられませんでした。(和歌山、福島、京都、奈良も同様です。こちらは県立で医学部が新設されて現在に至ってます。) 昭和40年代に、各県に医学部を設置する方向で文部省も検討しました。 聞くところによりますと旧制静岡高校には、医科専攻があったと聞きます。新制静岡大学の設置申請で当時の文部省は、旧制静岡高校、 旧制浜松高工、旧制静岡師範の統合から工学部と文理学部、教育学部の3学部に集約された新制静岡大学を設立させました。 これは官立の医学校が無かったので予想した結果です。 ところが、昭和49年に浜松医科大学が出来ていますが、本来は静岡大学医学部として静岡市に建設される計画であり、県議会でも 可決された事項であったのですが、当時の県知事竹山祐太郎氏が県議会決定を無視し、独断で浜松市への設置手続きを行ったことから 浜松医科大学として発足しました。 この一件が発端で県中部、県東部の自民党県会議員が竹山知事および浜松医大設置を承認した国に対し反発し、集団離党するという事態に 発展したようです。ここでも 静岡と浜松は、いろいろと対立したようです。国としても、既存の大学に併設するよりも単独の 医科大学のほうが管理下に置き易い利点があったとも聞いています。当時は医学部が無い県に医科大学を設置したり東京教育大学を 筑波大学としてスタートさせたりして、新しい大学が設立されました。今では、素晴らしい大学として浜松医大は発展しています。 結果的には静岡県として、良かったのではと思います。
・静岡大学の再編の方向性は?(新聞報道より抜粋)
静岡大学、浜松医科大学の再編
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静岡大(静岡市駿河区)と浜松医科大(浜松市東区)が両大学法人の統合を視野に大学再編の検討を始めていることが17日、関係者への 取材で分かった。数年内に浜松医科大と静岡大浜松キャンパス(同市中区)の統合を核に新たな2大学に再編し、一体化した大学法人の下で 2大学の連携を図る。両大学は今後、協議会を設置し、具体的な検討に入るとみられる。県内国立大の再編が進展することで、他大学へも 影響を及ぼす可能性もある。 関係者によると、現在検討されている構想では、国が検討中の国立大学法人法の改正などを受けて、両大学の国立大学法人を統合。浜松医科大と 工学部、情報学部などがある静岡大浜松キャンパスで構成する浜松市の大学、人文社会学部、教育学部、理学部、農学部などがある静岡大 静岡キャンパスを中心にした静岡市の大学の2大学に再編する。現在の2法人2大学体制から、1法人2大学体制への移行を目指す。 地域的、機能的にも一体性のある2大学への再編により、経営資源を効率的に運用し、各大学の独自性を生かした機能強化につなげる考え。 両大学はセンサーやレーザーなどの光技術を医療に生かす人材の育成を目指し、2018年度、共同大学院「光医工学共同専攻」を開設する など、連携強化を進めていた。浜松の大学では、光医療や医工連携などの強みを生かす狙いもある。
国立大学法人静岡大学 学長のブログで石井学長の率直な意見が出ました。⇒ここをクリック(Click)
※※読めない時は⇒ここをクリック(Click)
私も意見を投稿しました。クリックしてみてください。⇒ここをクリック(Click)
題して『静岡大学と浜松医科大学の統合に寄せて』です。



ここからは私の描く統合案です。  クリックしてご覧あれ!

少し静岡県レベルにおいて国立大学機構、両大学が実現すべき課題を述べます。
(1)工学部・情報学部の故郷は、浜松であり地元に里帰りできる環境であること
  (元々は、1922年創立の浜松高工が前身です)
(2)浜松キャンパス側は、講師陣、学生は今回の統合に賛同していること
(3)静岡国立大学機構の目指すべき方向性や姿がまだ、見えないこと
(4)県内の公立大学や私立大学、高専との連携する形が検討できていないこと
(5)静岡県の健康寿命の聖地、静岡県東部地区に対し提案できるのは、浜松医大さんであること
などがあると考えます。 私もOBの1名として、また各地方紙の新聞報道から、もっと静岡/浜松の双方に一体感が醸成されて、同じ方向性を向いた新大学法人に 対する協議が進むことを祈念しまして、私の拙い考えの一端を以下に述べました。
私見ですが、新生の静岡大学/浜松医科大学の姿は、イメージとして一言でいえば、米国、カリフォルニア大学を「手本」にした 「青写真」を描いております。
---
統合後の静岡大学/浜松医科大学の概要(案)
<大学名>
「静岡国立大学」としてはどうでしょうか?一本化しておいて
 ■静岡校(旧静岡大学、静岡キャンパスに拠点を置く)
  →カリフォルニア大学バークレー校の位置づけ
 ■浜松校(旧浜松医科大学、浜松市東区に拠点を置く)
  →カリフォルニア大学ロサンゼルス校の位置づけ
 の2つの国立大学に再編成します。
<概要は次のようになります>
静岡国立大学(仮英語: National University of Shizuoka)は、静岡市に本部を置く日本の国立大学群とします。 202X年に設置される予定です。当面、2大学からなる静岡国立大学システム(NUS system)は、日本で初めて設置される 国立大学群であり、静岡国立大学静岡校を旗艦校とします。
<2つの大学に置く学部>
設置される学部は以下の通り(設立当初)
 ■静岡校(人文社会科学部、教育学部、理学部、農学部、グローバル共創科学部)
 ■浜松校(医学部、工学部、情報学部)
 ⇒「静岡校」「浜松校」のネーミングは仮置きです。
日本国、静岡県に2つの大学(静岡校、浜松校)を持ち、世界的にも有名な研究重視の大学群とします。それぞれ独立 した総合大学として、図書館の書籍量、各研究機関など世界でも屈指の規模とレベルをめざして今後は誇りとします。
<形成すべき3つの大学システム像>
静岡県には、大きくわけて3つの大学システムを定義付けています。一つはこの静岡国立大学システム(NUS system)、 2つ目が既存の公立大学法人(、システム)の傘下にある静岡県立大学、静岡文化芸術大学という大学群。そして3つ目が 東海大学海洋学部、日本大学国際関係学部等の私立大学群です。運営形態こそ、さまざまであるが3つの大学システムの 各大学は、常に連携して世界に誇る研究開発や地域社会への貢献を目指して、全ての傘下の大学の組織を再編します。
<将来の学部構成案>
社会科学分野
 ←人文社会科学部(法、経済)情報学部(情報社会)、静岡県大
人文科学分野
 ←教育学部、人文社会科学部(社会、言語文化)、グローバル共創科学部、日本大学国際関係学部
生命科学分野
 ←医学部、理学部(生物、地学)、農学部、静岡県大、東海大学海洋学部
医学分野
 ←医学部、静岡県大(薬学部、看護学部)
工学分野
 ←工学部、情報学部(情報科学、行動情報学)、静岡文化芸術大学
物理化学分野
 ←理学部(数学、物理、化学)
芸術分野
 ←静岡文化芸術大学
⇒学部という括りではなくて学環に近いイメージで再編成します。
---
以上のように「静岡国立大学システム(NUS system)」としてしっかりした理念をまず定義しておけば、将来は、 米国のお手本、カリフォルニア大学のように進化、発展を続ける事は間違いなしです。
今野学長始め教職員、学生の皆さん、どうでしょうか?静岡大学現学長のように、訳の分からない言い回しや概念で 戸惑わせたり、時間稼ぎなどで小さく纏めたり、目先の損得勘定で動かずに、常に、日本と静岡の将来のあるべき姿を 展望されてじっくり協議されることを祈念してやみません。
今回の「静岡大学と浜松医科大学の統合」は、そういった過去の歴史に終止符を打ち、この静岡の地に 「新しい2つの大学」を作り出し、知識/教育の新しいインフラ基盤作りができる格好のチャンスではないでしょうか?
メリットやデメリットといった目先の「損得勘定」で議論するのではなく、新しく新制となる静岡大学のこれからの 「あるべき姿」を強くイメージして大胆不敵かつ、小心翼々に静岡での最高学府である大学という「知のインフラ構築」を 進めていってほしいと思います。
「強い者、頭の良い者が生き残るのではない。変化するものが生き残るのだ」とダーウインも言いました。どうか 諸先生・在校生の皆さん、英知を絞り創意工夫を凝らして協議して頂きたいです。いつの日か、また静岡大学の歴史を 語るときに「そうだね、あの浜松医科大学との統合こそ真の静岡大学誕生のきっかけだったね。」と熱く語れるように・・・、



7.静岡キャンパス周辺の風景
静岡キャンパスの広さは、539,327u(東京ドーム敷地の12倍)あります。近辺には、学生下宿が多くあり、大学から2キロ圏内に生活する学生は、 全体の71.8%もいます。通学時間もなんと、30分以内と答えた学生が全体の8割(79.4%)で、地方からの進学者が一つのコミュニティを形成しています。 昼時は生協が混むので近所には、定食屋が多くあって、手作りのおいしく安いランチを食べることができます。昔は、麻雀の音が朝まで響いていたり、 友人と議論し合って夜更かしする事もしばしばでしたが、今はワンルームマンションが多いので昔ほどの交流はないかもしれません。バイトは 家庭教師がほとんどでした。また下宿の大家さんは、農家が多く、下宿代を払いにお伺いすると、必ず「みかん持って行って」とか 「お茶っぱあるから持ってって」と、夏冬問わず、本当にありがたい差し入れを沢山頂けます。静岡ならではです。懐かしです。1,2年生は大谷とか 片山近辺に多く住みますが、3年位になると小鹿や池田、柚木あたりの富士山のよく見える下宿に引っ越す学生が多かったです。富士山のよく見える場所 としてお勧めは、静岡県立大学から、静鉄草薙駅に向かう下り坂より見る富士山です。一度、行ってみてください。休みの日のは静鉄バスで静岡市内に出かけます。 商業の街でとってもおしゃれな街です。駿府公園を中心にした旧城下町の地域(呉服町、七間町あたり)は、休日は歩行者天国になって、ちょうどいい 中都市暮らしを満喫できます。新静岡センターも新しくなったり、また東静岡駅近辺もどんどん新しい店舗ができるようです。田宮模型やバンダイなど プラモデルの本場でもあります。今後の静岡の変貌には目が離せません。
<静岡キャンパスの航空ビデオは以下をクリック>⇒ここをクリック(Click)

8.浜松キャンパスの風景
浜松キャンパスの広さは、216,556u(東京ドーム敷地の5倍)あります。こちらは、浜松中心部にあって国道257号線(別名、姫街道)に面しています。 静岡キャンパスとは対照的に平地にあって自転車での構内移動も楽です。徳川家康の出世城として有名な浜松城や佐鳴湖など歩いて行ける街中です。 学生は市内の下宿に散らばっていて、一極集中的な色合いはないです。浜松は、音楽の街、工業都市です。ヤマハの本社、工場やカワイやローランド など楽器メーカがあります。NHK浜松局には、昔ながらのレコードを多く集めた「浜松アーカイブ」があって所蔵されている約34万枚のアナログ盤 ライブラリーは日本一、宝のような場所です。まさに音楽のメッカでしょう。ホンダやスズキ、ヤマハ発動機など自動車産業も、ここ浜松が発祥の地です。 遠州鉄道が走っていて、浜松駅から浜北に延びています。静岡に比べれば地味な感じがしますが、凧揚げで有名な「浜松祭り」の時の賑わいは格別です。 町中に神輿の練り歩きが夜遅くまで続きます。工学部生や情報学部生は、真面目に勉強するタイプが多いと思いますが、静岡キャンパスとの部活やサークルの 交流は盛んで、多種多様な友人との出会いは、「人生の友」を得るチャンスでもあります。総合大学の強みです。近くの浜名湖では釣りをしたり、 海水浴しに弁天島まで足を延ばす事もありますが、浜松からは富士山はなかなか見えません。少し残念です。浜松の観光名所を挙げれば静岡に勝るとも 劣らず沢山あります。探してみてください。
<浜松キャンパスの航空ビデオは以下をクリック>⇒ここをクリック(Click)

9.shizuokaekihigashiguchiさんからの情報です。(2018/1/20)
静岡大学に静岡駅から静鉄バスで行くと、静岡大学の直前で運賃が急に上がります。
静岡駅前
(中略)
小鹿公民館前(190)ここまで均一
堀ノ内(240)
静大片山(290)
静岡大学(290)
これはバイトなどで静岡駅周辺の市街地へバスで出かける際、バス代が3段階あるということになります。 静岡大学周辺からですと290円ですが、少し北側の小鹿(おしか)辺りからですと190円でバスを利用できます。 ですから少し駅に近い(大学の目のと鼻の先ではない)辺りを選ぶという考え方もあります。 実際、駅に近いほど店は増えます。ただ当然大学は遠くなるので、通学の利便性とのトレードオフとなります。
他に気をつけないといけないのは、大学生協や不動産会社でお住まいを探すとき、住所だけ見てはいけません。 ネットの地図を見ると、静岡大学の南に駿河湾がありますが、大学の辺りから砂浜、および日本平の山の中までが 「駿河区大谷」という広い町域なので、最寄りバス停でその位置を判断する必要があります。 先述の小鹿(おしか)も広大な町域で、やはりバス停が目安になります。
静岡市は平坦な土地なので自転車でも立ちこぎなどせずに普通に走れます。大学周辺の道路はかなり狭いので 注意を要しますが、普段の足として「チャリンコ」をお持ちになるのも良いと思います。
ちなみに東名高速道路がキャンパス至近を走っていますが、うるさくはありません。むしろバスが走る 生活道路(大谷街道)沿いの方がうるさく感じます。なお、大学至近のところに東名高速道路のスマートインターが 建設中です。大学も含め、周辺の地域は今後交通量など環境がどう変わるか地元でも注目してるようです。 ネットの地図をご覧になりますと、三菱電機の工場南側を走る広い通り(南中央通り、地元の通称はSBS通り)が あります。ちょっとした外食などを所望される場合、大学からこの道路沿いまで行きますと選択肢が多くなります。 もちろん他のお店も増えます。「さわやか」もSBS通り沿いにあります。大学至近に居を構えて、買い物はSBS通り 沿いまで行くというのもそんなに珍しいことではありませんが、裏を返せば大学至近ですと大学生協やコンビニは ありますが、他の店がかなり少なくなります。
静岡市南部は風花が舞うだけでニュースになるような土地なので、住居の断熱は他の地域よりも控えめの場合があります。 あまり厳しい冷え込みはなく、温暖で実に住みやすいです。今年はかなり寒く感じますけど。ただ冬晴れの青空は高く、 静岡大学の上の方から市街地を見るとなかなかの「見事な眺め」です。静岡大学の裏山から続く先にある日本平は 富士山がきれいに見える景勝地ですが、富士山は静岡市内から毎日は無理ですがよく見えます。大学の西側、大谷川 放水路沿いの田んぼまで行くと富士山が大学のキャンパスをバックにして実によく見えます。静岡駅からバスで20~25分、 これをどう感じるかは人によりますが、授業開始前のバスは混むのでそのことをいっているのかもしれません。 特に2限から通学する学生は、9時半ごろのバスはラッシュ時のような増発がないので駅前で長い行列を見かけます。
むしろよく聞くのは電車の駅が遠いことよりもキャンパスが傾斜地にあることで、バス停は大学の目の前ですが そこから階段、坂道が延々と続いています。広いキャンパスですが広島大学や筑波大学のように敷地の周囲に複数の バス停があるわけではないので、学部の校舎によってはバス停からかなり距離があります。例えば人文社会科学部は 最も高いところなので、バス停から校舎の教室まで最も遠い場合は20分程度かかるので、そこまでの経路がほぼ階段か 坂道であることも併せて考えれば、最寄りバス停が(教室から)遠いというのは実感としてあって、それが「天空の城」 と言われる所以です。毎日が「登山」という表現をする学生もいます。♥♥♥
静岡キャンパスのアクセスマップは、⇒ここをクリック(Click)
公式に発表されている高低差情報を探しました。高低差情報は、⇒ここをクリック(Click)


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落語は友達!!



2017/11/25

  
佐布里落語会

◇(第80回を迎えた佐布里落語会)
私は大学に入って落語という「大衆芸能」に興味を持った。 今考えれば、何か趣味でも作ろうとサークル紹介を廻って、学生ながらの話術に引き込まれての「思い付き」入部だった。 正直、落語をしたかった?という確かな理由などない。 ただ何となく始めたのであるが、何と大学生活4年間、落語に打ち込む結果となった。

当時の1つ先輩に月の輪熊八(、二代目)がいた。 学部も違うし性格も考えも全く異なる彼は非常に個性的な人間(、変人?)だった。 ただ、何か時に触れて彼とは関わりを持つという「妙な関係で結ばれている」と自分は感じている。
・彼とお酒を飲んだ後、自転車で転倒し怪我をして生まれて初めて救急車で病院に運び込まれたこと
・彼が、下宿先の男女共同風呂を何度となく借りに来て大家づらして貸したこと(男女共同風呂の余韻がお好き?)
・初代熊八と初代阿呆也が「二人会」を開催して大学を卒業していたこと 共に二代目であったこと
・月の輪小熊(、ダム佐久間)さんの死 葬儀での彼の献身的な行動に感動した
・僕の結婚式には、彼を呼んで静岡での学生生活状況をスピーチしてもらったこと 面白かった

卒業後、彼から地元で落語会をするので手伝ってくれという事でなんとなく参加したのが、この佐布里落語会だ。 昨日、この佐布里落語会が第80回となった。 彼が主宰して年2回開催し、実に40年という歴史ある落語会となったわけだ。
凄い!全く凄い!!
参加演者も、年々変わっているものの40年も継続する事実は本当に凄い事である。 生半可で適当な気持ちでは決して続けられない。私も第5回目位から第40回までの前半20年で時々、参加させてもらっていた。
参加者は彼を始め、みんな年取って平均年齢も50歳代を裕に超えてしまったが、全国から演者が集まり、 実に巧い方ばかりで、今はセミプロレベルなのである。そして自分も、親父が亡くなって子供達も立派に独立したし、 孫も出来たし、そろそろ自分の好きな事でもして余生を暮らしてもいいよね?という気分だ。 今までは、いい加減に甘く適当に、この「落語」を考えてたがこれも何かの縁、ちゃんと落語に向き合って 余生の時間をこれに費やしてみようかと思うようになった次第である。

佐布里落語会

来年からも続けて何と「第100回(、50年)向けて頑張る」とトリの「付き馬」が終わったあと熊八より宣言があった。 彼なら、生きている限り実行することだろう。 残りはもう10年しかない。また、自分なりに練習してこの落語会に参加する事を一つの「生きがい」にしていこうと考えている。
リニューアルするあんたか亭阿呆也に乞うご期待!(なんちゃって?)
昔の落語の録音テープを整理し始めた、今日この頃である。


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つれづれ日記



2016/05/04 更新!


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◇(新東名が完成しました!! 熱海から初島までフェリーに乗った時の出来事は?)
2016年2月13日、新東名高速道路が全線開通しました。名古屋から静岡県内までのドライブはスピードアップされ 、地震などの震災などの備えも充実して、より快適で安全な環境が用意されました。流石にトンネル内は片側3車線と ゆったりとした道幅なので、ドライバーは楽な運転が出来ますし、疲れも少なく快適です。新設のSA/PAは、 長篠設楽原と岡崎の2つ。共に歴史的な背景をバックボーンにした一見価値ありのSAでした。沼津で新東名を降り、 熱海から乗り込んだフェリー。熱海から初島までの船旅を楽しみました。そこで見た光景は、びっくりポン! カモメが飛んだ日ではなく「カモメが芸をした日」でした。とくとご覧あれ。♥♥♥
あんたか亭阿呆也のフェースブックにワープします。

●お奨めスポット
neopasa長篠設楽原・・「長篠・設楽原の戦い」をコンセプトに、本陣に見立てた建物外観に加え、火縄銃の展示や馬防柵を再現した戦国エリア
neopasa岡崎・・岡崎伝統の石工技術を活かした道標型案内標識・八丁味噌桶モニュメント・テーブルを設置。三河地方の味と文化が詰まったサービスエリア
expasa足柄・・6mを越えるエヴァンゲリオン初号機の「世界最大」立像の展示をはじめ、エヴァオリジナルフードや限定グッズの販売等を展開


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あんたか亭阿呆也
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2015/01/05

  

◇(2015年 明けましておめでとうございます)
今年は人生区切りの年である。子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥と数える干支の「未」年。 十二支が一巡するんで還暦、生まれ変わるわけである。今年やってみたい事はと考えました。近頃は、 学生時代に入っていたサークル活動の同級生、同窓生のみんなも時間的な余裕が出来たせいか、参加する落語会 の便りや誘いが多くなってきました。いや、正しくは自分に余裕が出てきたのか気を留めるようになったせい かもしれません。切磋亭琢磨さんも月の輪熊八さんも教職にありながら卒業後もずっと落語を楽しんでいるし、 同級の極楽亭立往生も東京で積極的に活動してるようです。振り返って自分はどうかと考える時間が増えました。
落語をするにしても高座からは遠ざかってて、練習再開は自分の目指す「ねらい目」を定めて始動したいと 思っています。十八番は何だ?うーん、「大安売り」「動物いじめ」「道具屋」「代脈」「桃太郎」・・・ だめだ、過去の自分から抜け出せない今日この頃です。
この頃興味を持っている「雑草」と「数学」をテーマに新作(、小咄)を織り込んで昔のネタを復活させようと 思っています。目標は、秋の佐布里落語会に「開口一番」で出させてもらえるように熊八さんに頼んでみようかな。 自分でも楽しみです、また練習状況を報告します。♥♥♥
<静大落語愛好者の会> 大先輩のHPはこちらをクリック→切磋亭琢磨


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中京VS崇徳
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2014/08/31

  

◇(延長45回決着せず。夏の高校野球に世紀のドラマあり!)
凄いことになってきた!軟式高校野球の中京VS崇徳の準決勝は、延長45回を終えても0対0で引き分け再試合 となった。事もあろうに、明日は、延長54回(残り9回)まで戦って、引き分けなら抽選で勝者を決めて午後からの 決勝戦(対、三浦学苑)にダブルヘッダーで臨むという・・・、途方もなく言葉がない。想像できない試合となった。
硬式の高校野球での中京VS明石中、三沢VS松山商業、駒大苫小牧VS早稲田実業、星陵VS箕島など記憶に残る名勝負 もあるが、この試合は次元が違い、破格であると思う。明日も両校の先発は今までどおりで変更ないだろうし、 監督さんも既に勝敗ではなく、子供たちの為に納得のいく試合をさせるように工夫されるだろう。 なんでこんなに感動的な試合が出来るのか?両校の選手たちは、一心不乱にボールを投げ、ボールを追い、ボールに しがみ付いて打つ。その時その時で今まで練習してきた事を出し切れるよう集中してプレーするのみだが、結果は その全てを現わしている。子供たちは、野球のプロではなく他の高校生と同じく、大学進学や就職して新しい 環境になってもこの経験を一生、持ち続けて納得のいく人生を歩んでいくだろう。どんな苦境に陥っても、 この経験を糧に人生を切り開くことのできる大人になると頼もしく思うのである。
翌日も継続された、この世紀の大勝負は延長50回に中京が3点を取って崇徳を下し、決勝も2-0で三浦学苑を破って 優勝。三浦学苑さんには悪いですが、中京が優勝して本当に良かった。甲子園での三重高校、そして中京の 奇跡の大勝負と高校生はやっぱり頑張ってると感じた今夏でした。♥♥♥
<スコアボード> 拡大はこちらをクリック→拡大


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数学コーチャー
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2013/11/18

  

◇(数学コーチャー登録完了!!)
数学検定2級の合格と1年に渡る研修、実習を経て11月に数学検定協会の数学コーチャーに登録されました。
久しぶりの資格認定という事でワクワクしてます。今後は、協会の薦める数学講座などに参加して、自分の 持っているスキルや数学知識を小中学生などに伝えていきます。例えば、マジシャンが華麗にトランプを操り、 種も仕掛けもある手品を、まるでこの世の事象とは思えないように披露するように・・・。落語家が噺の導入で 小噺をしますが、それは本題への誘導であってスムーズに本題の噺に移行できるように流行話で観客をリラックス させる様に・・・。私は、数学の「良問」を作成登録を通じて、学習者に数学の楽しさや分かる喜びを分かち 合うような講義(、コーチングメニュー)をいくつも「持ちネタ」のように作り用意できればと思う次第です。
このホームページの「数学良問100題」の中で紹介していきますので期待してください!! ♥♥♥


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しずっぴー
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2013/08/16

  

◇(サラリーマン生活を休止)
長年、サラリーマンとして(、技術者として)生計を立ててきましたが、ここに来て両親の体調が思わしくなく 会社の皆さんにも迷惑ばかり掛けるので、思いきって介護と正面から向き合う期間を設けます。
毎日の時間をコントロールしながら、今まで忙しくてできなかった事を少しずつ行ってみます。温泉にも行きたい 、映画も見たい、本も読みたい、勉強もしたい・・・と、思いを巡らせるのは楽しいものです。このホームページの 日記も小まめに更新して行きます。期待ください!!♥♥♥





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恵那峡
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2013/02/04

  

◇(数学コーチャー)
僕は、数学が好きです。理由は、高校で良い点が取れたからです。数学には、解くときの道筋を立てないと うまく解けないセオリーがあります。そのセオリーをうまく見つけて、効率よく、無駄なく解いていく過程は まるでマジシャンが、トランプを片手に、視聴者にマジックで感動を与える様子とよく似ています。数検という 協会が認定している資格に「数学コーチャー」というものがあります。今回、この資格にチャレンジしようと 思います。そして、数学の問題をまるでトランプを扱うマジシャンのように皆さんと一緒に解いて行きたいと 思います。その資格獲得に必要な認定レポートがありますので、その問題の解法を数学良問100にエントリー します。皆さんも一度、チャレンジしてみてください。なるべく、セオリーや道筋を示してみます。 では、どうぞ。♥♥♥


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はなしょうぶ
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2012/06/10

  

◇(再就職の難しさ)
昨年、前職を離れて自由な時間を満喫しました。一度、自分の歩んだ道を整理し振り返るチャンスがあって 、それが仕事での、新しい自分探しではあったが文書に落としてみました。自分ができる事の少なさ、興味を 持ってる事柄の狭さ、自由な時間を使う術のなさ等、このまま老け込むのは不味いと一気に現役復帰を目指した 再就職先を見つけ就業することにします。でも、今回の就職は前とは全く「心持ち」が違います。自分の為に 働く、社会の為に働く意識で臨みたいと思います。また時間の使い方を意識したいと思うのです。この「意識 の中で働く」事が、再就職の意義なのです。しかし、高齢の転職は本当に厳しかったですね。日本の会社 (、社会)に余裕が無く、本当に役立つ人材か、若い将来性のある人材しか雇われない現実が見えてきました。 まだまだ10年は働こう!そして良い人間関係を構築しておこう!そういった老後の備えが必要だと思います。 そんな結論を胸に、再度、地域社会に飛び出して行こうと思います。♥♥♥


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neopasa駿河湾沼津
neopasa清水
ガンダム
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2012/04/20

  

◇(新東名、東京スカイツリーと東日本大震災)
4/14に開通した新東名を満喫しました。兎に角、走りやすい新世代のハイウエーでした。道幅(片道)は、 どこも3車線分用意されているので圧迫感がなくゆったりドライブできました。特にトンネル内の走りは快適です。 蛍光は無駄なく前方の車のバックに当たり、眩しさとかギラギラ感が無いので本当に運転しやすいです。 下りでは、三ヶ日JCTを抜けて東名に入ってからの運転に神経を使うので、返って非常に疲れる点が注意でしょう。 上りも、トンネルが多くあるのだが過去の東名、日本坂トンネルでの事故の教訓が生かされて、裕に3車線 取れる道幅なのに2車線走行としていて、進行方向に向かって左側に1車線分余裕があってトンネル内の 圧迫感が全くないです。まさに新世代のハイウエーです。
そしてもう一つの特徴は、PAやSAが充実していてPAやSA巡りでも楽しい旅行を演出してくれる点です。
新しいSAにはコンセプトがあって地域の特色を醸し出しています。それは新しい飲食物だけでなく、例えば 浜松の「音のある風景」、静岡の「ハートフルオアシス」、そして沼津の「リゾートマインド」を演出する フロアー配置とエリアの内装は一見の価値ありです。
百聞は正に一見にしかずであり、是非立ち寄って みてください。ペット同伴でも「ドックラン」が常設されています。家族みんなで楽しめるドライブの創造を 追及している事が良くわかります。東日本大震災後でもあり、このように災害を意識し、最新鋭の技術力を 集約して道路インフラを計画、整備した日本は、本当に素晴らしい国であると再認識できるはずです。
デジタル化インフラを整備した東京スカイツリーと道路インフラの完成形、新東名の双方の営業開始は、 日本の新世代インフラ設備の企画力、実行力の結晶です。心より拍手喝采したいと思います。 ♥♥♥
●お奨めスポット
neopasa浜松・・・ミュージックスポット(ヤマハ、ローランド)、鰻の串焼き(300円)
neopasa静岡・・・STRICT-G(バンダイ、ガンダム)、スーパーエコエリア(エコ!エコ!エコ!)
neopasa駿河湾沼津・・・オーシャンビューテラス(駿河湾一望)、プレミアムトイレ(とにかく綺麗)


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